神戸地方裁判所 昭和50年(行ウ)15号 判決 1987年9月28日
(事実欄目次)
第一当事者の求めた裁判
一請求の趣旨
二請求の趣旨に対する答弁
1 本案前の答弁
2 本案の答弁
第二当事者の主張
一請求原因
1 当事者
2 八鹿・朝来暴力事件の概要
(一) 朝来暴力事件関係
(二) 八鹿高校事件
(三) 八鹿・朝来暴力事件の背景
3 B差別文章事件について
4 狭山差別裁判闘争について
5 「解同」の狙いと行政の責任
(一) 「解同」の「差別糾弾闘争」の狙い
(二) 行政の責任(「解同」への追従と連帯)
6 南但民主化協議会、町民主化協議会の実態
(一) 南民協の組織と実態
(二) 町民協の実態
7 Aの支出
8 本件支出の実体的違法性
(一) 「朝来闘争」関係
(二) 「狭山闘争」関係
(三) 「八鹿高校闘争」関係
9 本件支出の手続的違法性
(一) 地方財政支出の原則
(二) 本件支出の方法と手続的違法性
10 故意、過失
11 原告らの監査請求
12 結論
二被告らの本案前の主張
三被告らの本案前の主張に対する原告らの反論
四請求原因に対する認否
五被告らの主張
1 同和対策への取組み
(一) 同和対策特別措置法の制定施行の経緯等
(二) 南但馬における同和対策への取組み
(三) 兵庫県の同和対策への取組みと南但各町に対する指導
2 差別事件の発生
(一) B差別文章事件
(二) 朝来町事件
(三) 八鹿高校事件
(四) 各事件についての原告らの宣伝について
3 本件支出の適法性
(一) 各事件の意義
(二) 本件支出について
(1) 南民協・町民協・町同協への支出
(2) 備品購入費
(3) 解同支部への補助金
(4) 南民協への支出七〇三万三二一五円について
(三) 支出の適法性
(四) 故意・過失
4 地方交付税について
六原告らの反論
1 被告らの主張1(同和対策への取組み)に対する反論
2 被告らの主張2(差別事件の発生)に対する反論
(一) B差別文章事件について
(二) 八鹿高校事件について
(三) 「各事件についての原告らの宣伝」という点について
3 被告らの主張3(本件支出の適法性)に対する反論
(一) 各事件の意義について
(二) 南民協への支出七〇三万三二一五円について
(三) 町議会の審査、議決を経て執行したとの主張について
(四) 予算外支出と補正予算の成立
(五) Aの故意・過失について
第三証拠<省略>
(理由欄目次)
第一争いのない事実
第二被告らの本案前の主張について
第三本案について
一本件の背景事情等
二事件の発生及びその概要
1 F宅包囲監禁事件(F糾弾事件、朝来闘争)
2 八鹿高校事件
3 狭山差別裁判闘争
三本件支出の適法性の有無
1 「朝来闘争」関係
2 「狭山闘争」関係
3 「八鹿高校闘争」関係
四本件支出により八鹿町に生じた損害の有無及び額
五Aの責任
第四結論
原告
守本建一
同
政次一義
同
上綱富保
同
四方信江
同
浄慶平八
同
片山喜和子
同
上山行央
同
福井敬治
右原告ら訴訟代理人弁護士
小牧英夫
同
山内康雄
同
川西譲
同
足立昌昭
同
垣添誠雄
同
上原邦彦
同
野沢涓
同
藤原精吾
同
前田貞夫
同
前哲夫
同
宮崎定邦
同
高橋敬
同
吉井正明
同
田中秀雄
同
原田豊
同
羽柴修
同
西村忠行
同
小沢秀造
同
藤本哲也
同
岩崎豊慶
被告
A相続人(配偶者)A1
同
同(二男)A2
同
同(長女)A3
同
同(三男)A4
右被告ら訴訟代理人弁護士
俵正市
同
弥吉弥
同
重宗次郎
同
苅野年彦
同
草野功一
同
坂口行洋
同
寺内則雄
主文
一 兵庫県養父郡八鹿町に対し、被告A1は金三三四万四八九五円、被告A2は金一一一万四九六五円、被告A3は金一一一万四九六五円、被告A4は金一一一万四九六五円、及びこれらに対する昭和五〇年六月六日から支払ずみまで年五分による金員をそれぞれ支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを二分し、それぞれを原告ら及び被告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、兵庫県養父郡八鹿町に対し、金一四八七万三九四〇円及びこれに対する昭和五〇年六月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 本案前の答弁
(一) 本件訴えを却下する。
(二) 訴訟費用は原告らの負担とする。
2 本案の答弁
(一) 原告らの請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
原告らは兵庫県養父郡八鹿町の住民であり、Aは昭和四六年二月二〇日から昭和五〇年二月一九日までの間同町の町長の職にあつた者である。
2 八鹿・朝来暴力事件の概要
本件被告らが、「八鹿闘争」・「朝来闘争」などと呼称している事件は、その実はいずれも、部落解放同盟兵庫県連合会(以下単に「解同」あるいは「解同」県連という。)の各支部幹部らを首謀者として、昭和四九年に兵庫県南但馬地方の各地でひきおこされた一連の集団暴力事件の中心をなす事件のことである。
右の「解同」幹部とは、「解同」甲支部(朝来町)支部長で「B差別文書糾弾闘争本部」闘争委員長のC、「解同」南但(地区)支部連絡協議会会長D(八鹿町乙支部所属)、同支部連絡協議会青年部長兼青年行動隊長E(養父町丙支部所属)らであり、彼らは八鹿、朝来、養父の三町をそれぞれ自らの拠点として勢力を拡大していつた。
当時、南但馬においては、「解同」が自治体当局、教育行政当局、学校当局などに対して無法な「解放行政」や「解放教育」を要求し、これに応じない者、これを批判する者に対してはすべて「差別者」のレッテルを貼り、多衆による暴力的糾弾を加えて屈服させ自己の意に従わせることとし、とりわけ同年九月から一一月にかけて「解同」が南但各地で次々とひき起こした集団暴力事件は、告訴(告発)された事件だけでも優に二〇件を超え、被害者総数では判明した分だけでも三〇〇名にも達するという重大事件である。「解同」によるこれら一連の蛮行は、一地方を「騒擾」状態に陥れたものと評することのできるほどのものであつた。
その大要は、次のとおりである(いずれも告訴事件である)。
(一) 朝来暴力事件関係
(1) 「解同」は、昭和四九年九月八日午後八時頃から翌日午後五時一五分頃まで約二〇時間にわたり、兵庫県朝来郡朝来町元津の国道三一二号線路上で、当時同和地区居住者で構成する癸部落解放統一刷新有志連が発行し、「解同」の確認会、糾弾会のやりかたを批判する内容のビラ配布を支援していた兵庫県教職員組合(兵教組)朝来支部長Fを多数で包囲軟禁し、更に、Fを救出に来た人々まで次々と包囲し、Fを含む一〇名を付近のテントなどに連行して監禁し、耳もとでハンドマイクの音量を最大にして「差別者」「死んでしまえ」「マキで頭をかち割つたろか」「一日で済むと思つたら大間違いだ。一週間でも一〇日でもやつてやる」などと脅迫し、肩をこづくなどの暴行を加えた(元津事件、監禁罪で神戸地裁一審有罪)。
(2) 「解同」は、右Fが元津事件で主犯Cら「解同」幹部を告訴したことに加え、なお「解同」に屈せずに「解放教育」を口実にその不当な教育介入を批判する態度をとり続け解放教育を妨害している差別者であるからこれを糾弾するとして、同年一〇月頃「F糾弾共闘会議」を結成し、その名のもとに、同月二〇日午後六時頃から同月二六日昼頃までの間一週間にわたり、Fの居宅周辺の電柱等に投光器、拡声器を設置するとともに、同人方東方約七〇メートルの空地に数張のテントを張つて見張員を常駐配置し、夜間は投光器を照射するなどの方法で昼夜監視の体制をとり、連日数十人ないし数百人(時には数千人)を動員して同人方居宅を包囲し、右居宅内のFに対し、右設置した拡声器、宣伝カーのマイク及び肉声で「F糾弾」「F出て来い」「お前は完全に包囲されている、いますぐ出てこい、わしらを怒らせたら怖いぞ」「お前が出て来るまで、一週間だろうが一か月だろうが一年だろうが、わしらは毎日来るぞ」「死ぬまで糾弾してやる」「お前を殺して部落が解放されるのだ」「死んでも庭に埋めんならんようにしてやる」「F首つれ、ばばあも皆首つれ」「F、赤犬、共産党の手先」「ばばあ、Fを説きふせ」「F、ばばあのこと聞いたれ」「F、月夜の晩ばかりとちやうぞ」などとこもごも怒号して住居の平穏をはなはだしく害するとともに、Fの生命、身体、自由等に対し害を加えることを告知して畏怖させ、この間約一三六時間にわたり、多衆の包囲と威圧によつてFをその自宅にちつ居を余儀なくさせて監禁した(F宅包囲監禁事件、「解同」側は橋本糾弾事件、朝来闘争などと呼ぶ、監禁罪で有罪)。
しかも、右「解同」らの行為は、Fを債権者とし「解同」甲支部を債務者として昭和四九年一〇月二三日に神戸地方裁判所豊岡支部が発した仮処分命令(同庁昭和四九年(ヨ)第二六号事件)をも無視して継続されたものである。
右仮処分命令の内容は、
「一 債務者は、みずから、又は第三者をして債権者の居宅(兵庫県朝来郡<以下省略>、以下同じ)の周囲を多人数で包囲し、同居宅に向けて拡声器を使用するなどして大声を発し、投光器で同居宅を照射するなど、債権者の私生活の平穏を侵害する行為をしてはならない。
二 債務者は、みずから又は第三者をして、債権者の居宅の周囲を多人数で包囲し、債権者の居宅からの出入を妨害する行為をしてはならない。
三 申請費用は債務者の負担とする。」というものであつた。
(3) 「解同」は、前同月二二日午後四時頃、「F糾弾」の実態調査におもむいた木下元二衆議院議員(弁護士)、前田英雄兵庫県会議員らの退出を暴力的に阻止して、長時間にわたり、監禁したうえ、その業務を妨害した(木下代議士監禁事件、監禁罪で有罪)。
(4) 「解同」は、前同月二五日前同所付近において「F監禁」事件に対する必要な法的措置を講ずべく右F宅におもむいた神戸弁護士会所属弁護士山内康雄外数名の者の乗つた自動車の行く手をさえぎり、これを監禁し脅迫、暴行等を行つた(口田路橋付近事件)。
(5) 「解同」は、前同日午前九時頃、兵庫県朝来郡生野町国鉄生野駅ホームにおいて「F監禁」行為への抗議に来ていた西村英弥外二〇名の者に対し、多数で殴打し、足蹴りにするなどの暴行を加えて「解放車」と称する自動車に連れ込み、生野町南真弓所在の南真弓公民館まで連行し、同日午後三時頃まで監禁したうえ、顔面を殴り、足蹴りにし、タバコの火を押しつけるなどの集団リンチを加えてこれらの者に足、顔、首などに打撲傷、挫傷、捻挫などの傷害を負わせた(生野駅南真弓公民館事件、逮捕監禁、傷害罪で有罪)。
(6) 同月二六日午前八時頃から八時三〇分頃までの間に、兵庫県朝来郡朝来町新井駅前、青倉駅前、竹田駅前及び青倉物部付近において吉水秀司外約四〇名がCら「解同」の蛮行を報道するビラを配布中、それぞれ約三〇名ないし約六〇名の「解同」同盟員らが角材、丸太、鉄骨、石などを持つて襲いかかり、引き倒すなどの暴行を加え、その内数十名の者に入院、通院を要する重傷を負わせた(新井駅前事件、青倉駅付近事件、竹田駅前事件、物部橋付近事件、内二件傷害罪で有罪)。
(7) 前同日午前八時二〇分頃、兵庫県朝来郡<以下省略>所在の和田山町町会議員佐藤昌之方付近において、「解同」同盟員約六〇名がいわゆる「解放車」など約五台に分乗して乗りつけ、N外数名に殴る、蹴るの集団暴行を加え、山本に対し柱に顔面をこすりつけ同人に眼球打撲による失明の傷害を負わせ、更に佐藤昌之方に押しかけ、口々に「やつてしまえ」等と怒号しながら、理髪店用回転式ガラス製サインポールをたたきわり、正面扉のガラス板を蹴り割るなどの集団で脅迫、器物損壊を行つた(佐藤宅襲撃事件)。
(8) 前同日、午前一〇時三〇分頃、兵庫県朝来郡生野町字口銀谷所在の生野町役場路上において、赤沢誠一外一一名に対し同人らが乗つた自動車数台を「解同」同盟員ら約一二〇名が取り囲み、「出てこい、出てこんと殺すぞ」などと丸太棒、鉄パイプ等をふりかざして襲いかかり、頭部、顔面、腹部などを殴打し、足蹴りするなどの暴行を加え、数名の者に全身打撲、骨折などの傷害を負わせた(生野町役場付近事件)。
(9) 同月二七日午後〇時一二分頃、兵庫県養父郡養父町所在の吉井誠一自宅裏付近において、吉井誠一外一名に対し、同人が「F監禁」を批判するビラを配布したなどといんねんをつけて、「解同」庚支部長G外数名が殴りつけ、足蹴りするなどの暴行を加えたうえ、大藪公会堂に連行し、約四〇名で取り囲み、同日午後五時頃までの間「糾弾」と称して監禁し、同人に対して殴る蹴るの暴行を加えて顔面裂傷、胸部打撲傷などの傷害を負わせた(大藪公会堂事件、暴力行為等処罰に関する法律違反(共同暴行)で有罪)。
(10) 同年一一月一二日午後四時三〇分頃、兵庫県養父郡八鹿町八鹿一六七五所在の同町民センター二階大会議室において、八鹿町当局が蛮行を重ねる「解同」と連帯していることに批判的な同町職員南下彰に対して「解同」丁支部員や町幹部らが「糾弾」と称して監禁し、殴る蹴るの暴行、傷害を加えた(南下事件)。
(11) その他、一〇月二四日江上弘則外三名に対する朝来町由利若神社前集団暴行事件、同月二六日八王子グランド集団暴行事件など「同盟」員による集団暴行、傷害、監禁事件は枚挙のいとまがないほどである。
右のうち(10)を除く事件を朝来暴力事件と呼んでいる。
「解同」の右のごとき暴力による言論・批判の圧殺行為に対して、南但各町の町当局や教育行政機関は、積極的に協力加担した。糾弾闘争に対する物心両面からの支援はもとより、「解同」の暴行批判に対してこれを部落差別を助長する行為であるなどときめつけて、自らも宣伝活動を行つた。
また、警察当局もしばしば彼らの暴力現場に居あわせながら必要な処置をとらず、また、住民や教職員からの警備要請や救済要請に対しても何ら適切な処置を取らなかつた(そのため前記有罪となつた事件以外は、犯人の特定が不十分として不起訴となつているのである。)。
以上の結果、八鹿高校事件直前の南但馬はまさに無法地帯と化し「解同」による同和行政の私物化と教育への介入は無謀の極に達していたのである。
(二) 八鹿高校事件
(1) 事件にいたる経過
ア 兵庫県立八鹿高校では、但馬地方の他校に先がけて昭和四〇年頃から同和教育に対する熱心な取り組みが始められた。校内には、校務分掌として同和対策室(後に同和教育室)が置かれ、教職員の同和研修会を継続的に行う、生徒のクラブ活動として「部落問題研究会」(部落研)も設けられ、各部落内での地区父兄との交流学習会にも教職員多数が積極的に参加するなど、地道で熱心な同和教育の実践が行われ、県下でも有数の成果をあげてきた。
このような努力の結果、八鹿高校では、教職員、生徒の部落問題についての関心が高く、昭和四九年に入つて南但馬のほとんどの学校が、前記C、Dらの指導する「解同」に次々と屈伏し、公教育に対する支配介入が強められていく中にあつて、ひとり八鹿高校教職員のみが管理職も一致して、彼らの意のままにならず、又、彼らの要求する「解放教育」や「部落解放研究会」(解放研)の結成を口実とする教育介入にもき然として反対していた。
そしてそれは部落の父母の学校に対する真の願いが、「運動」よりも生徒の学力向上、学習保障にあることを知つていたからでもある。
イ 「解同」は、同校教職員が意のままにならないところから、これを暴力的に「糾弾」し、屈伏させようと考え、まず同校の珍坂校長、小田垣教頭を同年六月のいわゆる「一泊研修会」での「糾弾」で屈伏させたうえ、県教委等の協力のもと、同年七月末頃、職員会議の反対を無視して、また同校生徒自治会のクラブ設立規則にも反して、同校長、教頭だけで違法な「解放研」の設立を強行した。しかも、単なる同好会としては異例の部室を与え、教頭自らを顧問とするなどの“特別扱い”とさせた。
しかし、そこに参加した部落出身生徒は、「解同」側の必死の工作にもかかわらず、同校在校生五二名中の三分の一にも満たなかつたのである。しかもそのほとんどは、同年四月に進学してきたばかりの一年生の女子生徒であり、八鹿高校の同和教育の実践を知つている上級生の部落出身生徒の大多数は、これらの動きに批判的かつ冷静に対応していた。
ウ 八鹿高校内でルールを無視してつくられた「解放研」は同年九月の新学期に入ると但馬高校連合解放研結成に向けての準備活動、ならびに同年九月八日の同結成大会に参加、校内では同年九月二二日からの文化祭等で活動を開始したが、活動の面でも校内のルールを無視していた。即ち、前記文化祭では企画をたてて実施する生徒側の実行委員会があるが、同委員会の計画を無視して活動したり、又、校内でのビラ張りでは生活指導部の許可印がいるのに「解放研」のビラについては小田垣教頭の私印ですまされていた。又、その活動に要する費用、例えば部旗の費用については校長が自らのポケットマネーで捻出するなどの特別の扱いをうけていたことが明らかである。
エ 一方、教職員は同年九月に入つてからも校長に対し、職員会議の決定を無視して「解放研」を設置したことに抗議し、「解放研」について未公認の態度を堅持してきたが(同校生徒自治会も同様)、校長は逆に、同年九月二〇日、「同和教育についての学校長の所信」という文書を職員会議にも諮らず一方的に育友会、職員に配布し、その中で「確認会」や「糾弾会」は、「差別性に対する点検を行い、解放に対する教師の使命を自覚する学習の場であり従つて積極的に参加すべきこと、解放研の生徒達が八鹿高校の教師に対して不信感を抱いていることは否定できない事実であつて…………私たちは何よりも自己の差別性を深く反省して生徒達と心を開いて話しあえる教師となり云々」と述べるにいたつた。右文書はあたかも八鹿高校の教師に差別性があり、それを認めたうえで「確認会」や「糾弾会」に応じ、「解放研」生徒と話しあえと言わんばかりの全く「解同」に迎合した文書である。
オ 以上の動きの中で、同年一一月一二日「解放研」の生徒一〇名余りが、突然高本同和教育主任に対して、同月一六日(土曜日)に同和室の先生方と「話し合い」をしたいと申し入れた。右話し合いについては、その具体的内容や条件が一切示されていなかつたが、教師側は同日、右申し入れについては小田垣教頭を通じて同月一四日に回答すると生徒に答えている。
カ 翌一三日同和教育室会議で、右申し入れについて検討されたが、職員側としては「解放研」設置の経過から「解放研」そのものを認めておらず、校長らとも交渉中であること、又、話し合いの内容が不明であり、突然の申し込みであることから「解放研」との話し合いには応じかねる(個々の生徒との話し合いは別)旨決定し、同月一五日その回答は「解放研」生徒に伝えられた。
右回答に対して「解放研」生徒らは同日高本同和主任に対して「何故話ができないのか、納得のできる返事を聞くまで授業には出ない」として校長室に待機した。高本教諭は小田垣教頭から生徒を説得してほしいと要請され、校長室におもむいたが、そこで同生徒から「生きるか死ぬかの問題だ。今すぐ回答せい」と激しく迫られた。右高本は生徒側が授業に出ようとしないため、やむを得ず、個人として話し合いに応ずる、とその場を収拾するため「解放研」生徒に回答した。
キ 高本同和主任の個人的回答について、同月一五日の拡大同和推進委員会ならびに一六日職員会議で議論されたが、話し合いのルールが定まつていないこと、他校におけるケースをふまえて本来の「話し合い」ができるのかどうか疑問であること、時間設定もできていないことなど、結論的に今の段階で話し合いに応じたら混乱を招くという理由から、高本教諭の話し合いについても、これをしないことを決定した。しかしながら右結論につき、同月一六日「解放研」生徒が激しく抗議し、興奮状態となつて収拾がつかなくなつたため、教師側は「八鹿高校解放研以外の外部のものをいれない。時間は四時までとする」との条件をつけ、高本・四方・小林(重太郎)の三教諭が第三職員室で「解放研」生徒と話し合うこととなつた。
ク 前記三教諭と「解放研」生徒一〇余名との話し合いは、当初教師側の話し合い拒否の理由、「解放研」をなぜ認められないのか、という二点について進められたが、それらについて教師側の回答がされた後からは、殆ど教師側を罵倒する場となつた。そして、第三職員室内に外部の者、八鹿高校朝来分校職員らが入りこみ、又、第一職員室には「同盟」員らも入りこんで「解放研」生徒を支援する様相を呈し、生徒らも興奮して話し合いを続行できる状態でなくなつたため、午後五時半から教師側は終了を宣言して第三職員室を出た。更に、教師側は待機中であつた職員を含めて下校したが、教師側は職員室から出ようとする時、戸を外から押えられたり、又、自転車で道をふさがれたりするなどの妨害をうけた。
ケ 翌一七日の日曜日、教職員側は前日一六日の状況から事態が悪化することを予想し、神鍋で職員集会をもち、前日一六日までの状況の説明と同月一八日からの授業の持ち方について協議した。そしてそこで、同月一八日からの授業は正常に行うことをきめた。
コ 翌一八日朝、八鹿町内には解放車が入り八鹿高校の糾弾を叫び、八鹿高校正門前では同盟員らがビラを配布していた。校内には外部の者が入りこみ、職員室前には二〇余名の生徒らが座りこみをしていた。さらに職員室には、「差別教師糾弾」等のポスターが壁や窓に一面にはりめぐらされ、机の上、職員の机の引き出しの中にビラがおかれ、机の上に釘でとめてあるものまであつた。
教師側は、同日ショートホームルームで生徒に対しても一六日までの状況を説明すると共に、座りこみの生徒に対しては授業に出るよう説得した。
しかし、同日、「解放研」は教頭を介して教師側に対し、①八鹿高校解放研の顧問をさらに三名つけること、②八鹿高校解放研と教師との話し合いをもつこと(但し、但馬高校連合解放研ならびに各役員を含む)、③現在八鹿高校の同和教育は部落の解放と全ての生徒の幸せにつながつていないことを認めること、の不当な三要求を通告した。教師側は同日放課後右三要求について職員会議で検討し、受け入れないことを決めた。尚、同日Cを議長とする「八鹿高校教育正常化闘争共闘会議」が結成され、八鹿町町民ホールにその闘争本部が設置された。
また、これに続いて、南但各町役場内にAを含む各町長を本部長とする各町の「闘争本部」も次々と組織されて行つた。
サ 翌一九日、校内では前日と同様、外部の者が入りこみ、座りこみの生徒とシュプレヒコールをし、又、座りこみ生徒が教師を八ミリで撮影するという状況もあつた。教師側は同日三校時終了後、解放車がマイクで叫びたてる中、再度職員会議を開き、座りこみ生徒がかかげる三要求について、「学校内部で相談してきめる問題であるにも拘らず、一六日以降の事態から判断して受入れ難い」ことを報告し、再確認した。この日前記共闘会議から七項目の「闘争方針」が発表されたが、その内容は、「解放研の要求貫徹をはかる。解放研は座り込みをつづけ、各組織は必要に応じて、動員その他の闘いを行う。解放研の生徒より断食闘争の申し出があるので状況によりその闘いを具体化する。五万人以上の総括集会を行い勝利を宣言する」などとされていた。
シ 同年一一月二〇日、前記「八鹿高校教育正常化共闘会議」は、「八鹿高校差別教育糾弾共闘会議」と名称変更され、高校内応接室に現地闘争本部をおき、共闘会議本部との直通電話が設置された。
この名称変更は、「解同」にとつて「教育介入」の非難を避けるための必要不可欠な措置であつた。
当日、ゼッケンを着用した座り込み生徒父兄や「同盟」員二十余名が職員室に押しかけ、さらに放課後開かれた職員会議で、校長が八鹿高校にむけて糾弾の準備が着々と進められ、事態は緊迫していると教職員に対して述べるなど、文字どおり緊迫した状況になり、その日の教職員の集団下校が、動員された「同盟」員、前記共闘会議構成員らによつて妨害された。
ス 翌二一日、前日、前々日よりも校内へ動員される「同盟」員、共闘会議の人数が増加、授業も正常には実施できなくなり、この日の午前中、校長から「正午を期して座り込み生徒が断食闘争に入る」との通告があつた。
さらに、午後二時頃、同校長から「二時から断食闘争に入る」との二度目の通知があつた。しかる後、午後四時ころ、二名の「解放研」生徒の断食闘争宣告後、現実に座り込み生徒による断食闘争が開始されたものである。
この間「解放研」生徒の座り込み闘争は、一部の一般地区生徒をまき込んではいたが、部落出身生徒の支援者の数は「解同」幹部の父兄に対する必死の工作(オルグ)にもかかわらず基本的に増加せず、大半の部落出身生徒を含む大多数の生徒は、生徒自治会のもと、教職員側の態度を支持しつづけていたのである。
(2) 八鹿高校教職員に対する集団リンチ事件の概要
(逮捕監禁、強要、傷害、逮捕監禁致傷の各罪名で有罪)。
ア 同年一一月二二日朝登校した同校教職員は、校内や路上に「解同」員が多数動員され、「解放車」も校内に多数入りこんで前日以上に殺気だつた不穏な状態となつていること、「解同」が当日午前中に大動員をかけているという情報が入つていたこと、翌二三、二四日が連休で「解放研」のハンスト作戦が効果的でなくなることなどから、当日「解同」による暴力糾弾の計画の確実なことを察知し、身体生命の危険を避けて学校教育の自主性、中立性を守るため、直ちに職員会議で年休をとつて集団下校をする、生徒も安全な方法で下校させる、との措置をとることを決議し、一部「解同」員の妨害を受けながらも集団下校を開始した。
イ 教職員集団が午前九時四〇分頃、隊列を組み校内を出て約三〇〇メートル進行し、立脇履物店付近の路上に差しかかつたとき、その集団下校を察知したCら外多数の解放同盟員が、その進行を実力で阻止し、やむをえずその場に座り込んだ教職員らを取り囲んで、多数で襲いかかり、無抵抗のものを蹴り上げ、殴打し、髪を引つぱるなどの暴行を加えたうえ、無理やりトラック、マイクロバス等に押しこめ、或いは両脇をかかえて引きずるなどして八鹿高校第二体育館まで連行した。
上山行央ら五名は、この際路上で襲われたが、付近の民家に逃げこんで、かろうじて難を逃れた。森垣寿弘ら六名は路上で暴行を受けたが、その場から逃れ、又は負傷して病院に運びこまれた。篠原猷彦ら二名は路上で暴行を受けたうえ、いつたん八鹿高校体育館まで連行されたが、重傷のため、直ちにその場から入院した。
ウ C、同Dらの指揮の下に解放同盟員多数は、第二体育館に連れ込んだ片山正敏外四九名に対し、それぞれひとりづつに対して多数で取り囲み、「解放研の生徒と話し合いをせよ」「差別教育があつたことを認めよ」などと大声で罵声をあびせ、耳元にハンドマイクを近づけて怒鳴るなど脅迫を加えながら、頭部、顔面、腹部、背部など全身を無数に殴打し、足蹴りにし、髪を引つぱり頭を壁にぶつつけるなどの暴行を加え、更には、バケツで冷水を何度となく浴びせ、また首筋、胸元に流し込むなど、凄惨な集団リンチを加えながら、「自己批判書」又は「確認書」の作成(「話し合い」)を強要した。
エ そして彼らの言いなりにならない教職員に対しては、更に本館二階会議室、解放研部室などに順次連行し、前記方法による暴行のほか、顔面にタバコの火を押しつける、牛乳ビンで頭を殴る、メリケンサックを手拳にはめて顔面を殴る、タバコの灰の入つたバケツの水を無理やり口や鼻に注ぎ込むなど一段と凶暴な暴行を加えた。そのため教職員は次々と人事不省や、重態となつて救急車で病院に運ばれたが、残つたものに対しては、その意思に反し「過去の同和教育は誤りであつた」「今後は解放同盟とともに同和教育を進めていく」などと記載した「自己批判書」又は「確認書」を作成せしめた。
つづいてC、同Dらは、「総括糾弾会」と称して片山正敏外二八名を同校第一体育館に連行し、数百名の解放同盟員及び動員してきた町民等の前に整列させたうえ、Cが「八鹿高校差別教育糾弾闘争は勝利した」と勝利宣言を行い、教職員らに対し「自己批判書」は自分の意思で書いたものであることを認めるよう強要した。そして午後一〇時四五分頃に至りようやく「糾弾会終了」を宣言したのち、全員を釈放した。
以上のように「解同」は、同日午前一〇時頃から午後一〇時四五分頃までの間、同校教職員五〇名各一人につき約一時間ないし約一二時間四五分にわたり監禁した。
(三) 八鹿・朝来暴力事件の背景
(1) 兵庫県下では、昭和四八年五月二〇日、それまでの部落解放兵庫県連合会などの県下独自の運動組織が「解同」中央本部に組織加盟して「解同」県連が結成された。それまでにも県内には阪神間を中心にいくつかの「解同」支部が存在していたが、「解同」中央本部主流派の意図を反映してか、これらの各支部とは直接関係のない形で県連が強引に結成されたといういきさつをもつている。
結成された「解同」県連は、ただちに兵庫県当局と同和行政の「窓口一本化」の約束を取り付け、これをテコとして県下全域にその組織を拡大していつた。
(2) 南但馬では、もつぱら自治体の同和施策の窓口を一本化するとの行政側の都合もあつて、もつぱら行政主導型の「解同」支部づくりが行われ、従来の部落の区長などをそのまま支部長とし、部落世帯全員が「解同」に加盟した扱いをするという、極めて便宜的な支部結成があいついだのである。
これと並行して、同年七月頃、「解同」南但地区支部連絡協議会が結成され、また、同年一〇月には同協議会に青年部が結成されていくこととなる。この青年部の結成、あるいはその青年行動隊の組織化がなされる頃から、「解同」各支部青年部を中心として、南但馬における町当局や議会、教育関係者、学校教職員などに対する暴力的な確認会・糾弾会がひんぱんに行われるようになり、自治体から“成果”(財源)をひき出すとともに、これが急速に南但全域に拡大していつたのである。その際、最大限に利用されたのが「B差別文書事件」と「狭山闘争」である。
この動きが次第にエスカレートし、「解同」はその意に沿わない者や抵抗する者に対するムキ出しの集団暴力体質を露わにするようになつていくのである。
(3) 「確認会」、「糾弾会」に名を藉りた「解同」の集団暴力の第一の特徴は、それが多くの場合、幹部によつて指導され組織的に行われていることである。このことは、前記一連の刑事事件によつても容易に窺い知ることができる。幹部自身が暴力の先頭に立つことも少なくないが、そうでなくても、幹部が教唆、せん動し、幹部の容認、庇護のもとに集団暴力が繰り広げられているというのが実体である。一部の人が弁護するように、幹部の指導やこころざしに反して、激情に駆られた一般「同盟」員が偶発的に暴力に走つたというようなものではないのである。
右の事実と関連して指摘しなければならないのは、集団暴力と行政当局や警察との関係である。「確認会」や「糾弾会」には、しばしば、地方自治体の行政当局や教育委員会、学校の校長や教頭などによる職務命令や強力な指導助言によつて事実上参加を強制される場合が多い。その際、これへの参加を拒否したり、「解同」の方針や行動を批判したりすると暴力的な「糾弾」を受けることが多いのである。このような場合、自治体や学校当局が、「解同」と一緒になつて「確認会」等への参加を拒否した者を非難攻撃し、さらに進んで、暴力的な「糾弾会」への参加を慫慂したり、場所の提供等の援助を行うことが少なくないのである。
また、これらの集団暴力がきわめて長時間にわたり公然と行われているにもかかわらず警察が犯行の制止や被害者の救出を行わず、事実上傍観しているという場合がほとんどであつたこともゆゆしい問題である。
「解同」幹部は、このような、自治体、学校当局、警察などの態度を計算に入れて、「糾弾闘争」名下に各地で集団暴力を惹起したものと言うことができる。
ちなみに、一連の集団暴力事件に対し、「解同」が自己批判したり、運動の誤りや行き過ぎと認めたことはかつてなく、もとより被害者に謝罪したこともない。
(4) 「解同」の暴力的な「確認会」や「糾弾会」の第二の特徴は、それが、一方では自治体当局や学校当局に向けられ、補助金、各種の援助金や様々な利権を獲得したり、「解放教育」と称する独自の考えによつて公教育を支配することをめざして、当局を威嚇、恫喝する手段に用いられ、他方では、このような「解同」のやり方を批判する者に対し、批判の言動を暴力によつて封殺する手段として行われていることである。彼らの口ぐせである「日共差別者集団糾弾」というスローガンはまさに後者の典型例であると言える。
ところで重要なことは、右のような不当な目的をもつて「確認会」や「糾弾会」を行うためには、部落差別とは無縁の事象をとらえて「差別」があると強弁し、これを口実に集団暴力による恫喝を行うということが不可避であるということである。換言すれば、「解同」幹部による暴力的「糾弾」闘争は、差別でないものを「最大の差別」であるかのように言いくるめることによつて演出されているのである。
3 B差別文章事件について
(一) これは、昭和四九年一月上旬に発覚した事件であるが、兵庫県の幹部職員B(豊岡病院勤務)が、八鹿高校出身の息子と同校在校中の部落出身女子生徒との交際をやめさせるために、「差別言辞」を用いた手紙を数々出したとするものであり、同息子がこれに反発し、その手紙の一部が前記Cの手に渡つたというものである。
この手紙の内容については、「解同」によつて一部公表されたが、原文はCら一部「解同」幹部だけしかみておらず、ほとんど知られていないため、事の真相や右Bの真意は今なお不明である。
ただ、ここで言えることは、なお根強く残つていると思われる部落差別についても、戦後世代の若年層ではこれが次第に払拭される方向にあること、とりわけ交際していた男女がいずれも八鹿高校の民主的同和教育を受けていたことからすると同校の同和教育が一定の成果を収めていたことが十分に窺い知れるということである。
(二) Cらを中心とする「解同」南但各支部は、これについて南但各町から費用を支出させて「B差別文章事件糾弾闘争本部」なる組織を大々的に結成させたうえ、C自らがその闘争委員長となつて、南但各地で激しい「行政糾弾闘争」(確認会・糾弾会)を集中的に行つた。
しかしそこでは、Bやその親族(家族だけではない)に対する「確認・糾弾」は行つたものの、肝心の県当局幹部や最高責任者の県知事などに対する「確認会・糾弾会」などは事実上放棄され、もつぱらそれより下位の南但各町行政担当者や教育関係者らに対して、攻撃のほこ先を向けたのである(教員を含む教育関係者も押しなべて「行政の末端」だとされた)。
その狙いとするところは、真に行政担当者らの「差別意識」を取り払おうとするのではなく、同和行政の「窓口一本化」を通して、彼らの運動資金を思いのままに各町財政から支出させ、又同和施策がらみの利権を獲得することにあつた。この「解同」幹部による同和施策の独占によつて、彼らの部落住民支配も貫徹されたのである。
彼らのもう一つの狙いは、教育関係者に対する「糾弾」によつて教育行政はもとより、教育現場(教員)にまで介入、支配の手をひろげて、「解放研」の育成と「解放教育」の浸透をはかり、学校教育(義務教育)を自らの活動家養成の場にしようとすることにあつた。
そのため彼らの「糾弾」の手口は、いきおい過激なものとなり、「確認会・糾弾会」も彼らの言うような「最高の学習の場」などとおよそ認められず、彼らへの「屈伏、服従」を迫るだけのものとなつたのである。
「B差別文章事件」の闘争は、このような彼らの狙いと結び付いて、八鹿・朝来暴力事件へと必然的にエスカレートしていくこととなる。
4 狭山差別裁判闘争について
(一) いわゆる狭山裁判というのは、昭和三八年五月埼玉県狭山市で起きた女子高校生を被害者とする強盗強姦、強盗殺人等被告事件である。昭和三九年三月一審浦和地裁で死刑判決を、同四九年一〇月三一日東京高裁控訴審で無期懲役の判決を、最高裁で上告棄却の決定をそれぞれ受けたあとも数度の再審請求が出されてきた。
同事件の被告人は、弁護団の無罪弁論にもかかわらず、一審判決まで取調段階の「自白」を維持し、死刑判決のあと、控訴審の冒頭段階になつて初めて、自白は取調担当官との「約束」に基づくウソのものであつたと“告白”するという極めて特異な経過をたどつた事件である。
(二) 「解同」中央本部は、控訴審の途中から、この裁判闘争に取り組むとともに、裁判の本質は部落民に対する差別捜査をうのみにした差別裁判であると規定し、裁判所に対し、無罪判決あるいは「裁判取消し」を求める運動を組織していつた。
その中で「解同」は、この運動(狭山闘争)に積極的に取り組むかどうかが、部落問題に真剣に取り組む姿勢があるか否かの証左だとして、真に事件の真相についての理解を求めようとするのではなく、「解同」の運動に協力するか否かの“踏絵”として事件を利用していつたのである。
特に高裁判決の出た昭和四九年は、「解同」の影響力の強い地方では、自治体自らが「狭山差別裁判取消要求」とか「狭山裁判無罪要求」などという内容をスローガンとする市民向けのたれ幕なども出し、また職員を闘争に直接派遣するなどの異常なまでの運動との連帯が押し進められていつた(最近はこのような「差別裁判」一本やりの闘争方針の挫折などから、「公正裁判」要求運動に切り替えつつあるようである。)。
結局、前述の「B事件」やこの「狭山闘争」に対する自治体の異常なまでの物心両面の援助が、八鹿・朝来暴力事件への全面的加担という重大事態への呼び水となつたことは間違いない。
5 「解同」の狙いと行政の責任
(一) 「解同」の「差別糾弾闘争」の狙い
(1) 「解同」にとつては、「B差別文章事件」も「狭山差別裁判闘争」もまた「八鹿高校事件」(彼らはこれを「八鹿差別教育事件」などとうそぶいている)も、自らの勢力拡大のための“差別”という名を冠した「大義名分」にすぎない。彼らの目的は行政支配と教育支配にあるのである。
その狙いとするところについては、前述(B事件の項)したが、さらにつけ加えるならば、一つには行政を通じての町職員や住民の大量動員という人的資源の確保である。これによつて闘争を飛躍的に拡大させることができる。彼らが「闘争共闘会議」を結成するのも、こういう狙いがあるからである。
また、この住民(や各種団体)の大量動員によつて、相手方(被害者)を孤立化させるとともに、彼らの闘争に正当性や公正さの装いをするという政治的な狙いもある。
(2) 部落解放運動も民主主義運動の一つである以上、部落差別解消の道すじ、運動のすすめ方などについて意見が異なる人々や運動団体が並存することになるのも、至極当然のことといえよう。
Cらの所属する部落解放同盟の外に、全国部落解放運動連合会(全解連)、全日本同和会、国民融合をめざす部落問題全国会議、部落解放運動の統一と刷新をはかる有志連合など、それぞれ独自の歴史と運動方針を有する諸団体が存在している。もつともこのうち後者の二団体は、一個の団体というよりも、「解同」の一部幹部による暴力と利権路線のため水平社以来の解放運動と部落解放の事業が大きく停滞することとなつたのを何とか是正したいとする水平社時代からの活動家や各運動団体の人々(全日本同和会の一部を含む)が思想信条や党派を超えて集まつて結成された連合体といえよう。
(3) 「解同」による「糾弾」は自由と人権を侵害し、正しい部落解放運動を阻害している。
彼らの差別糾弾がいかに無法なものであり、そのことがいかに部落解放運動の正しい発展を妨げているかは多くの識者によつて指摘されている。
一例をあげれば、同和問題についての政府の審議機関である地域改善対策協議会は、昭和五九年六月「今日における啓発活動のあり方について(意見具申)」を発表し、その中で「行政としての主体性の欠如」と「民間運動団体の行きすぎたいわゆる確認、糾弾をはじめとする行動形態」などをあげ、その是正、再検討をせまつている。
右意見は「同和問題にとつて自由な意見交換ができる環境づくり」を提唱し、「民間運動団体による行きすぎた確認、糾弾がその原因となつていることは否定できない。そのため是非ともその是正、自粛を求めるものであり、自由な意見が確保されてはじめて同和問題が国民にとつて開かれたものとなり、真に国民的課題となり得る」と指摘している。
(二) 行政の責任(「解同」への追従と連帯)
(1) 南但各町当局者は、「解同」の無法な要求を次々と安易に受け入れ、いうがまま、なすがままの町財政の支出を長期間にわたり、かつ極めて多額になしてきた。
また町長自らが先頭にたつて「解同」指導の各闘争共闘会議に加わり、各町闘争本部長になるとともに、町職員や住民を「解同」のために動員した。
このような行政の「解同」に対する積極的追従と連帯が「解同」を一層増長させ、さらなる無法を生んだことは疑いない。
その意味で行政の責任は極めて重いといわなければならない。
(2) しかも右の一連の行為は、承継前被告Aを含む南但各町長が、各方面、とりわけ町議会内や町当局者の間の反対や疑問を押し切る形で強引にすすめていつたものである。
また各暴力事件中も、それぞれ積極的に直接事件に加担していたのであり、事件後、「解同」幹部が逮捕、起訴され、その凶悪な犯行が広く明るみに出てから後も、「解同」を庇護すべく、その裁判闘争を直接支援し、そのための活動費まで支弁するとともに、「解同」幹部とその後の対策などについて打合わせまでしているのである。
まさに前記Aは、「解同」の一連の無法行為に、単に全面的に追従してきたというにとどまらず、積極的に“連帯”する態度を取り続けたものということができる。
(3) このようにみてくると、当時前記Aが「解同」のためになした一連の「違法支出」について、いかなる弁解も成り立たないことは明白である。
ひるがえつて考えてみると、前記Aは、「解同」の要求が仮に自己の財産に対するものであつたら、このような安易な支弁ができたであろうか。また、自らの身内の者であつたら、「教育、説得、啓蒙」などという名目の「解同」による無法な確認、糾弾の場に積極的にその身を露わにさせることができたであろうか。
事態は正に、行政責任者としての地方自治の本旨に従つた主体性と管理責任が問われていたのである。
(4) 行政の長たる地位に立つ者は、「解同」のいかなる無法な要求に対しても、町民の生命、財産を守るためには、身体を張つてでも、またその職を賭してでも、これを阻止(拒否)すべきであつた。多くの町民は、正にそのことを町長に求めていたのである。
現に「解同」の無法な暴力糾弾にも屈せずに正しい主張や態度を貫いたF(朝来町長)や朝倉宣征(養父町長)が、事件後、圧倒的多数の町民の信託を受けて二期、三期と町政を担当してきているという事実が、そのことを雄弁に物語つている。
6 南但民主化協議会、町民主化協議会の実態
(一) 南但民主化協議会(以下「南民協」という)の組織と実態
(1) 南民協は、個人の尊敬と基本的人権の確立、地域社会の民主化を目的として、昭和二三年に設立され、南但各町の助成金と会費を主たる財源として、研修会、講演会その他の広報活動などの事業を行うこととしてきた。組織的には、南但各町の町長、同和関係促進機関の役職員と関係各種団体の役員らで構成された半官半民の団体であり、年間予算も昭和四十五、六年頃までは数十万円程度の規模で、目立つた存在の団体ではなかつた。
(2) ところがその後「解同」県連の幹部となる地域の有力者や部落解放兵庫県連合会(「解放」県連)の幹部らが、各種団体の役員などの立場で会の運営に少しずつ関与するようになつてからは、南民協は運動団体の補助団体的な性格を強め、それとともに会の会計に占める「解放」県連関係の活動への支出の割合も次第に増大していつた。
昭和四八年五月に、この「解放」県連が「解同」県連に改組した後、同年六月に規約を改正して、運動団体を組織の一員として正式に加えてからは、右の傾向は一層極端になり、南民協は組織ぐるみで「解同」県連南但各支部の影響を強く受けるようになつた。
そして、「解同」南但支部連絡協議会会長のD、辛支部のI、壬支部のJら「解同」幹部が会の運営権を掌握し、また「解同」C派が、青年行動隊を中心に激しい「糾弾闘争」「行政闘争」を進めるにつれて、南民協は「解同」南但各支部の活動資金の供給源としての性格を益々強めていつた。
正に南民協は、「解同」の発足によつて、大きくその体質を「変革」されたのである。
(3) そして昭和四九年九月に「解同」が引き起こした逮捕監禁、傷害事件である元津事件や同年一〇月のF宅包囲監禁事件の頃には、既に南民協は「明朗で平和な社会の建設に寄与する」という目的とは全く反して、南但馬地方を恐怖の無法地帯と化していつた「解同」南但各支部による監禁・強要・傷害の集団暴力犯罪を中心とした違法、不当な「糾弾」闘争の活動資金を、南但各町から送り込むためのたんなる「トンネル機関」にまで堕するに至つたのである。
つまりこの時点で南民協は事実上「解同」に乗つ取られてしまい、従来の南民協の組織の中心であつた南但各町長は、「解同」の要求に応じて南民協を通じて活動資金を支出することを相談するだけの南但十町長会として動くこととなつたのである。
そして、ここにおいては、南民協の名前は便宜的に各町長が借用したにすぎず、南民協と町長会をAが適当に使い分けていた。
つまり、Aは既に当初から南民協が「解同」への活動資金支弁のための「トンネル機関」にすぎなくなつていたことを熟知しており、そのための対策まで講じていたのである。
(4) このことは、南民協の会計を見ても明らかである。
即ち、昭和四七年度に南但各町が負担金という名で南民協へ支出した補助金の合計は七七万三二〇〇円で全歳入一〇二万六二三五円の七五パーセント程度(それまでも大体七〇パーセント前後)であつたが、「解同」県連へ改組した四八年度は四九〇万円(99.49パーセント)、四九年度は一三八六万円(99.78パーセント)と額も割合も極端に増大している。つまり、実質各町からの支弁だけで運営されていたのである。しかも、「解同」による一連の集団暴力事件が集中したこの昭和四九年度には、別にB差別文章事件闘争用の“特別会計”として四五八三万円もの補助金が各町から入つている。
なお、この特別会計については、既に昭和四九年の三月段階でその一部は各町の予算として議会などには明らかにされたが、その後同年六月の南民協定期総会でも何らこの会計については触れられていないことからみると、Aら南但各町長は、その目的の不当性と額のあまりの多額なことなどを考慮して、当初はヤミで支出することが検討されていたものと考えられる。
このようにして各町から入つた補助金は、四八年度で八〇パーセントに当たる三九二万円、四九年度で89.9パーセントに当たる一二四六万円が「繰出金」としてそつくりそのまま「解同」南但支部連絡協議会などへ渡つているのであり(四九年度の一二四六万円は、南但支部連絡協議会の歳入の九〇パーセント以上を占めている。)、本件で問題となつている昭和四九年度の特別会計分については、ほとんど全額が「解同」南但各支部を中心とする前述の集団暴力犯罪などの違法不当な「闘争」の諸装備の購入、動員日当などの諸経費に直接充当されているのである。
とりわけ、「八鹿高校闘争」については、当該犯罪行為が行われた後、これに要した経費のツケを南民協、町民主化協議会(以下「町民協」という)へ回し、これを「共闘会議諸経費分担」との名目で南民協の「臨時負担金」として、各町の分担、拠出によつて賄うといつた違法極りないやり方をしているのである。また、「B差別文章事件」名目の南民協特別負担金が、実はその大半が「八鹿闘争」の経費として支出されている。これは、Aらが「八鹿闘争」の経費を実際より小額にみせるための町民向けの不当な工作といえよう。
(二) 町民協の実態
各町の民主化協議会は、南民協と同様な趣旨で八鹿町では昭和四三年に、朝来町では同四五年にそれぞれ設立されたが、町長が会長を兼ね、事務所を町役場に置くことにしていること、などからみて町から独立した団体といえるかどうかも疑わしい性格のものであり、長い間「開店休業」状態であり、目立つた活動はしてこなかつたのである(各町民協規約)。
ところが南民協の方が前述のように「運動団体」の活動資金の供給源としての利用価値をもつに至つて、「解同」は、町民協も同様に利用することにし、同和対策室に事務所を置き、その職員が事務局を兼ねるように規約を改正して、「解同」幹部が町民協を実質的に支配するようになつた。ここにおいて町民協も「解同」の活動を援助・補助するだけの機関に変身してゆき、昭和四九年頃には町民協の独自の活動はほぼなくなり、町財政から「解同」兵庫県連各支部の活動資金を調達する「トンネル機関」としての実態をもつに至つたのである。
このことを八鹿町の例でいうと、町民協は昭和四七年から同和対策室に事務所を置き、その職員が事務局及び会計を兼ねるとしていたが、昭和四九年度の町民協現金出納簿をみても、その収入は全部町の補助金であるうえ、支出のほとんどが「解同」支部の活動費(「大地の夜明け」は「解同」県連製作の宣伝映画である)に支出されていることがわかる。しかも、町長自身、町民協会計ではあるが事実上は町が各支出項目を知つたうえで支出したものであることを自認しているのである。町民協からの支出についても町長が基本的には決裁をしていることからみても当然である。
また、朝来町でみれば、同町民主化協議会協議録によれば、昭和四九年度「狭山闘争、朝来闘争、八鹿闘争」で「解同」と「共闘」したことを明確に認めており、昭和五〇年度に至つても事件の主犯Cを役員として迎え、「解同」甲支部との提携を強めることを基本方針としているのである。
なお、「町同和教育推進協議会」という組織も昭和四九年当時存在していたが、これも基本的には町民協と変わらない組織であり、構成もかなり重複しているうえ、その目的が「町における行政と教育と運動との連絡提携を強める」こととしていることから見れば(八鹿町規約三条)、町民協以上に「解同」に従属した組織となつていたことが容易に窺えるところである。
7 Aの支出
Aは、兵庫県養父郡八鹿町長として、昭和四九年一二月から昭和五〇年二月までの間に、別表記載のとおり、町民協等に対し合計一四八七万三九四〇円を地方自治法二三二条の二による補助金として支出した(以下この支出を「本件支出」という。)。
8 本件支出の実体的違法性
(一) 「朝来闘争」関係
(1) 支出行為の存在
Aは「朝来闘争」に関し、総額一四万四三二〇円の違法支出をしている。
右一四万四三二〇円の内訳は次のとおりである。
ア F糾弾集会参加のためのバス借り上げ料 四〇、〇〇〇円
イ F糾弾集会でのパン代 四、三二〇円
ウ F糾弾集会に関連し発生した交通事故の補償金 一〇〇、〇〇〇円
これらの支出は何れも町民協会計を通じてなされた形式をとつてはいるが、それは単に帳簿上のことであつて、実質は町の会計から右糾弾集会を主宰した解同県連ないし、各支部に直接交付されたものである。
支出時期は、「朝来闘争」が昭和四九年一〇月二〇日から同月二六日までにかけて行われたから、実際はこれに接着した時期に支出されたものと思われるが、会計帳簿に記載のある昭和五〇年二月一四日とせざるをえない。
(2) 違法性
ここに「朝来闘争」とは部落解放同盟兵庫県連甲支部が中心となり、同県連南但地区支部連協なども参加して、Fを「糾弾」すると称して、昭和四九年一〇月二〇日から同月二六日までの間、Fを自宅に監禁し、集団脅迫を加えた集団暴力事件をさす。その詳細は前述のとおりであり、その実体は部落解放と無縁なばかりか、明白な犯罪行為であつて、首謀者ら三名が監禁罪等で起訴され、昭和五八年一二月一四日神戸地方裁判所第三刑事部において有罪判決が言い渡されている。このように、「朝来闘争」は、明白な犯罪行為であつて、Aがこのような犯罪行為に対し、補助金等の名下に金員を支出し「糾弾」を財政的に援助することはまさに犯罪集団に自治体の公金を与えたに等しく、しかもその支出は右犯罪行為の主謀者らが逮捕された昭和四九年一二月以降にされている。このような支出はいかなる意味においても適法な支出とはいえない。
(二) 「狭山闘争」関係
(1) 支出行為の存在
Aは、「狭山闘争」に関しては、総額二九五万三四八七円の違法支出をなした。
右二九五万三四八七円の内訳は次のとおりである。
ア 八・二二南但決起集会費用
八〇、〇〇〇円
イ 一〇・三〇八鹿町決起集会費用
六一、五〇四円
ウ 一〇・三一全国集会費用(町民協会計)
六六二、七三三円
エ 一〇・三一全国集会費用(町同協会計)
一六八、四五〇円
オ 八・二二南但決起集会(南民協会計)
三四、八〇〇円
カ 一〇・三一集会丁支部参加経費
一、二六〇、〇〇〇円
キ 一〇・三一集会戊支部参加経費
三五〇、〇〇〇円
ク 一〇・三一集会乙支部参加経費
一八三、〇〇〇円
ケ 一〇・三一集会己支部参加経費
一五四、〇〇〇円
(2) その違法性
ア 「解同」が主体となり、または参加して行われる「狭山闘争」とは、当時東京高裁に係属中で、その後昭和五二年八月九日上告棄却の決定で有罪判決が確定したK(現再審請求人)に対する、強盗強姦、強盗殺人等被告事件であるいわゆる狭山裁判について、その本質を部落民に対する差別裁判であると規定して、裁判所に対し無罪判決を求めるため行われていた運動である。
ところで、住民の信託を受けた地方公共団体が、特定の運動団体ないし運動に、補助金を支出するにあたつては、住民運動そのものは自治体で行うべき事業でないこと、及び行政の中立性等に留意し、その効果と必要性を慎重に検討されねばならないことは自明の理である。したがつて、行政と運動との混同を招くような補助金の支出は公益性を欠き、かつ行政目的達成の為の必要最少限度の経費支出の要請をも、いちじるしく逸脱するものとして、地方自治法二三二条の二及び、地方財政法四条一項に違反する違法支出と言わざるをえない。
イ 本訴訟において問題とされている「狭山闘争」への補助金は、直接、八鹿町所在の「解同」四支部に支出されたものであると、八鹿町民主化協議会を通じて、「解同」県連ないし前記四支部に支出されたものであるとを問わず、「解同」が中心となつて行われたいわゆる狭山差別裁判闘争経費として、旅費、食費、宿泊費等の運動行為そのものに充当するために支出されたものである。
更に、本訴訟で問題とされている特定の時期の狭山闘争経費への補助金額に限定しても、たかだか年間約一五億円にすぎない八鹿町の財政規模に照らし、多額な金額である。
このように、本件補助金支出を通じ、財政面においては、行政と運動とが混同され、そこに何のけじめもなく、Aは、本件補助金支出の対象とされた「解同」の「狭山闘争」にあたつては、いわば財政部長の役割をはたしたと評価しても過言ではない。
よつて、本件補助金支出は、公益性を欠くものとして地方自治法二三二条の二に違反し、必要最少限度の経費支出の原則を逸脱し、いかなる意味でも適法な財政支出といえない。
(三) 「八鹿高校闘争」関係
(1) 支出行為の存在
Aは、「八鹿高校闘争」に関しては、総額一一七七万六一三三円にのぼる違法支出をした。
右一一七七万六一三三円の内訳は次の通りである。
ア 八鹿町闘争経費一一月二五日までの分(町民協会計)
一、八九一、三九五円
イ 八鹿町闘争経費一一月二六日以降の分(町民協会計)
一、七〇〇、五八八円
ウ 闘争用備品購入費(一般会計)
一、一五〇、九三五円
エ 八高問題共闘会議経費分担金
七、〇三三、二一五円
(2) 「八鹿高校闘争」経費の補助金支出の違法性
ア ここに「八鹿高校闘争」とは、部落解放同盟兵庫県連の指揮下に南但馬地域の各支部(丁、戊、乙、己各支部を含む)が中心となり、兵庫県立八鹿高校における同和教育を糾弾すると称して種々策動し、昭和四九年一一月二二日に至り、同校の多数の教師を違法に逮捕、監禁し重傷を負わせた集団暴力事件である。これはまさに部落解放運動とは縁もゆかりもない暴力集団によるリンチ事件であり、その概要は前述のとおりである(請求原因欄2(二)参照)。
イ 地方自治体が財政支出をなす場合、それが補助金であろうと分担金であろうと「公益上必要」であることが絶対条件である。
しかるに、Aは「解同」の「糾弾」、「確認」が「吊るし上げ」ないし、集団リンチであることを知悉し、且つこれに対する補助金、分担金の支出が「糾弾」を財政的に援助することになるのを知悉しながらこれを支出したものであり、さらにAの支出の大部分は右の集団リンチ事件の犯人が逮捕され、起訴された後になしたものであつて、まさに犯罪集団に自治体の公金を与えたに等しいものである。
9 本件支出の手続的違法性
(一) 地方財政支出の原則
(1) 財政支出の一般的手続原則
地方財政支出の一般的手続原則としては、まず第一に、支出が法令又は予算の定めるところに基づいてなされることを要する(地方自治法二三二条の三)。法令に違反したり、あるいは予算の定めがない場合には支出することはできない。例外的に議会の議決を経ず、長の専決処分としてなすことができる場合があるが、それは議会が成立しないとき、同法一一三条但書の場合においてもなお会議を開くことができないとき、議会を招集する暇がないと認めるとき、又は議会において議決すべき事案を議決しないとき、あるいは軽易な事項で議会が議決により特に指定したものに限られ(同法一七九条一項・一八〇条一項)、このいずれかの要件がなければ専決処分は許されず、これらの要件がないのになされた専決処分は違法である。
(2) 支出をなすには、普通地方公共団体の長の命令を要する(同法二三二条の四)が、長がこの命令(支出命令)をなすにあたつては、法令又は予算の定めに従つた支出の原因となるべき契約その他の行為(支出負担行為)がまずなされなければならない(同法二三二条の三)。以上述べたことを図式的に要約すれば、地方自治体の支出は、
法令又は予算(の議決)
←
支出負担行為
←
支出命令
←
現実の支出
という順序を経てなされる。
八鹿町においても、同法に基づき、同様の手続きを町条例として定めている(八鹿町例規集、「財務規則」)。
(3) 本件で主として問題となつている補助金交付金に関しては、その支出が公益に合致し、かつ適正妥当なものであることを確保するために、通常の予算の場合より厳格に、
ア 寄付又は補助を求める団体からの要求書
(その団体の活動内容、補助を必要とし、かつ補助が公益上必要であることを疎明するにたる資料を添付する。)
イ 自治体の長、担当者との接渉
ウ 折渉において補助金支出の内諾が得られた補助金の項目、金額についての正規の請求書を団体から提出する。
エ 予算案の作成、議決
オ 交付決定
カ 支出負担行為
キ 支出命令
ク 支出
ケ 団体より決算書ならびに活動報告の提出
という手続を経るものとされる。
(二) 本件支出の方法と手続的違法性
(1) 予算に基づかない支出である。
本件各支出は、補正予算に計上、議決される以前になされた支出であつて、予算に基づかない支出である。また、長の専決処分として議会に基づかずになしうる要件も存しない。これらの支出は地方自治法二三二条の二に違反し、かつ八鹿町条例に違反する違法な支出である。
(2) 支出負担行為、支出命令に基づかずになされた支出である。
本件支出は、長の支出負担行為、支出命令がないのになされた支出であることが明らかである。支出命令がなされたのは、現実の支払いに遅れること数日あるいは数か月後である。
以上のような手続的違法性については、その支出前に、町議会において指摘され、八鹿事件に関する経費は町財政から支出すべきでない、との意見が複数の議員から出され、A自身も法的根拠がないことを認めざるを得なかつた。すなわち、昭和五〇年一月一八日の議会答弁で、町費として支出しなければならない法的根拠を糺されたAは、「法的根拠がないから、町長は困つているのだ」と、開き直りともとれる答弁をしている。
(3) 瑕疵の治癒を認める余地はない。
地方財政支出が、法令又は予算の定めるところに従つてなされなければならないことは(同法二三二条の二)、地方自治における原則中の原則であり、地方自治法一七九条が専決処分のなしうる場合を制限的に列挙していることからしても、専決処分の要件がないのに、専決処分としてなされた支出は、後に議会の承認があつたとしても地方自治法違反であると解する外はない。
予算外で支出した違法は、その年度において補正予算の形式で予算措置がとられても治癒されない(松山地判昭四八年三月二九日判時七〇六号一八頁)し、当該公金の支出につき、議会の議決があつたからといつて法令上違法な支出が適法な支出となることもない。(最判昭三七年三月七日民集一六巻三号四四頁)。
10 故意、過失
以上述べてきたような違法な本件支出をなすにあたつて、Aがその違法性を十分知りながら、敢えてその支払いを命じたことは、事実経過から明確である。
即ち、Aは本件支出が、行政の目的に反する、犯罪的違法行為に対してなされるものであることを、当初から知つていた。朝来、狭山、八鹿の各闘争は、町当局をその構成員に含めた「共闘会議」を予め結成したうえで取り組まれ、Aは、各闘争が現実に、既に述べたような違法行為を含んだものであり、公金を費出して、その経費を賄うべからざるものであることを、その支出時期までに十分知つていた。朝来闘争については、その支出は昭和五〇年二月一四日に決定されたことになつており、狭山闘争については昭和四九年八月三〇日ないし昭和五〇年二月一四日までの間である。
八鹿高校闘争については、八鹿高校事件の発生に先立ち、八鹿町を初め、南但一〇町が解同と一緒になつて、八鹿町町民ホールに「八鹿高等学校の教育を正常化する共闘会議八鹿町本部」を設置し、事件の発生からその後始末まで、一貫して関与している。
しかも、町議会において、事件発生後、町費支出前である昭和四九年一二月一九日より昭和五〇年一月一八日までの間に、八鹿事件の経費詳細について、その支出の当否をめぐり議論がなされ、なかでも、第一三八回〔臨時〕八鹿町議会〔第三日〕(昭和五〇年一月一八日)で、「八鹿高校問題について、三三〇万円の内二九〇万円程度は、八鹿が負担しなさいという要請があつたわけです。二九〇万円のうち一五〇万円はほとんど備品です。そのことのにつめができていないわけです。一四〇万円については食糧費的なもので、その分は八鹿が負担すべきだということです。七八五万円の分担は南但一〇町という基本的な考えは決まつております。」「四〇万円の内訳は、消耗品、印刷費、燃料費です。」「八鹿町で持ちます経費は、借り上げ料一五万三千円、消耗品一四万円、薬品六万円、それと黒板に書いている経費です。合計二九一万三千円です。薬品は強心剤、ガーゼ、ビタミン、浅田アメ、リポビタンDなどです。」「今日多く出た闘争とかすべての費用が自治法、同対申、町条例のなかに出さねばならない関係はないと思う。義務づけがどこにあるのか。自治大臣も、ゼッケン、ハチマキ、も自治体で出すべきでないといつております。町が受け持つ分野としてどうやつていくのか。八町の町長は県、国に伺つて、どこまで財政をつけていくのか。ご研究なさつて真剣に考えていただきたい。」「法的根拠をはつきり示していただきたい。」とのこれら質疑討論に対して、Aの答弁は「法的根拠がないから、町長は困つているのだ。」というものであつた。
この討議のあとAは本件支出を命じたのであるから、その違法性を知つて故意に町財政に損害を加えたものと言わざるを得ない。仮にそうでなくても、本件支出により、町に違法に損害を加えるにつき、過失の責めを負うことを少なくとも、免れない。
11 原告らの監査請求
原告らは、昭和五〇年二月二八日、本件支出につき兵庫県養父郡八鹿町の監査委員に対し監査請求をしたところ、同監査委員は本件支出が「不当、違法な支出とは考えない」との監査結果を出し、原告らは昭和五〇年四月二八日にその旨の通知を受けた。
しかし、原告らは右監査結果に不服である。
12 結論
よつて、原告らは、地方自治法二四二条の二第一項四号の規定に基づき、兵庫県養父郡八鹿町に代位して、被告ら(Aの相続人)に対し、同町がこうむつた損害一四八七万三九四〇円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和五〇年六月六日から支払ずみまで民法に定める年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 被告らの本案前の主張
1 支出命令は、議会の議決に基づく行為であるから地方自治法二四二条の二に基づくいわゆる住民訴訟の対象にはなりえない。
すなわち右のいわゆる住民訴訟は、住民が出訴に先立ち住民監査請求を経ることを要求しているが、その趣旨は同法二四二条の住民監査請求の実効性を裁判所の判決によつて確保することにある。したがつて、住民訴訟の対象は同法二四二条の住民監査請求の対象となる事項でなければならない。
ところで、同法二四二条の住民監査請求の対象となる事項は、監査委員が、普通地方公共団体の長に措置を求める権限のある事項でなければならないが、監査委員の権限を議会との関係で考察すると、監査委員の権能は議会に対し独立した固有の機能を有するというより、一般的には同種の機能を団体の経営に係る事業の管理及び団体の出納その他の事務の執行に限り専門的集中的に担当するにすぎず、したがつて長以下の執行機関の行為の適否、当否に限られ議会の議決には及ばない。また、右の長以下の執行機関の行為を監査するについても、その行為が議会の議決に基づきまたは議決により承認されているかぎり、これを違法不当とすることは、結局議会の議決そのものを監査する結果となり、監査委員の権限に属しないものである(大阪地裁昭和三〇年二月一五日判決・行裁集六巻二号三五九頁、津地裁昭和三二年五月六日判決・行裁集八巻五号八六八頁参照)。
右によれば、本件支出に際しAの発した支出命令は、いずれも昭和四九年一二月及び同五〇年二月に補正予算として町議会の議決を経た予算の執行としてなされたものであるから、本件訴えは住民訴訟の要件を欠き不適法である。なお、右昭和五〇年二月の補正予算については、いわゆる専決処分を行つたものであるが、町議会の承認は受けている。そして、右専決処分は適法なものであるが、仮に瑕疵があつたとしても、町議会に報告してその承認を経ているので瑕疵は治癒されたものというべきであり、町議会の支出に基づく支出命令であることにかわりはない。
2 Aは地方自治法二四二条の二第一項四号にいう「職員」に該当しない。
(一) 住民訴訟及びその前置手続たる住民監査請求について規定した地方自治法二四二条、二四二条の二では、「執行機関」、と「職員」を区別して使用している。そして「長」が「執行機関」に含まれることは、右二カ条中で「長その他の執行機関」として使用されていること、および地方自治法全体の構成からいつても明らかである(例えば、第七章執行機関、第二節普通地方公共団体の長とされている)。
そして、同法二四二条の二第一項各号列記をみるに、一号及び三号では「執行機関」又は「職員」が住民訴訟の対象とされているが、四号では「職員」のみがその対象とされているのである。
(二) Aは普通地方公共団体の長すなわち「執行機関」として議会の議決に基づく予算の執行として支出命令を発したのであるから、Aは右四号にいう「職員」に該当しない。
(三) 仮に前項の主張が認められないとしても、右第四号にいう「職員」とは、財務に関する長の行為が個人的な私利・私欲を図るための行為であつて、到底「執行機関」の行為とは観念され得ないような極端な場合を指すものと解すべきである。しかるときは、Aの行為は個人的な私利・私欲を図るための行為でないことは勿論であつて、議会の議決に基づく予算の執行として、長の権限たる支出命令を発したのであるから、これを「執行機関」の行為と観念され得ない個人的な「職員」の行為とみることはできない。
(四) いずれにしてもAは右四号にいう「職員」に該当せず、本訴は不適法な訴えというべきである。
三 被告らの本案前の主張に対する原告らの反論
1 支出命令は、議会の議決に基づく行為であるから本件住民訴訟の対象とならないとの被告らの主張は失当である。
すなわち、議会の議決と執行機関の行為とは論理的に区別されうるのであり、議会の議決を経たからといつて執行機関の行為が議会の行為とみなされるわけではない。また、地方自治法が二四三条の二を同法五章とは別に規定したのは、個々の住民に違法支出等の制限、禁止を求める手段を与え、もつて公金の支出、公財産の管理を適正たらしめるものであるから、監査委員は、議会の議決があつた場合にも、長に対し、その執行につき妥当な措置要求でき、ことに訴訟においては議決に基づくものでも執行の禁止、制限等を認めることができるものと解しなければならない(被告ら引用の大阪地裁昭和三〇年二月一五日判決の上告審である最高裁昭和三七年三月七日大法廷判決・民集一六巻三号四四五頁、最高裁昭和三九年七月一四日判決・判例時報三七九号九頁参照、なお、被告ら引用の津地裁昭和三二年五月六日判決はその控訴審である名古屋高裁昭和三四年八月三日判決・判例時報一九七号一〇頁により取り消されている。)。
2 Aが地方自治法二四二条の二第一項四号にいう「職員」に該当しないとの主張も失当である。
すなわち、地方自治法二四二条の二第一項四号によるいわゆる代位請求訴訟は、地方公共団体が、職員又は違法な行為若しくは怠る事実に係る相手方に対し、実体法上同号所定の請求権を有するにもかかわらず、これを積極的に行使しようとしない場合に、住民が地方公共団体に代位し右請求権に基づき提起するものであり、このような代位請求訴訟の構造からして、右訴訟の被告適格を有する者は右訴訟の原告により訴訟の目的である地方公共団体が有する実体法上の請求権を履行する義務があると主張されている者と解すべきである(最高裁昭和五三年六月二三日判決・裁判集民事一二四号一四五頁参照)。
四 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2について
冒頭の主張は争う。(一)(2)の事実は否認する。(二)の各事実のうち、被告ら主張(後記五3参照)に反する部分を除き、いずれも否認又は争う。(三)の主張は争う。
3 同3のうち、B差別文章事件の内容は、被告ら主張(後記五2(一)参照)のとおりであり、その余は否認又は争う。
4 同4のうち、いわゆる狭山裁判の内容は、おおむね原告ら主張のとおりであるが、その余は否認又は争う。
5 同5の主張はすべて争う。
6 同6について
(一)の事実のうち、南民協の目的及び組織が原告ら主張のとおりであることは認め、その余は否認又は争う。同(二)の事実のうち、各町の町民協が南民協と同様の趣旨で設立されたことは認め、その余は否認又は争う。
7 同7の支出のうち、別表の「朝来闘争」及び「狭山闘争」欄の支出があつたことは認める。同表「八鹿高校闘争」欄のうち、町民協に支出したことは認め、町同協欄(一般会計)の一一五万〇九三五円の支出についてはその趣旨を否認し(右金員は八鹿町の備品購入のため支出されたものである。)、南民協に支出したことは認めるが、その趣旨は否認する(右金員は八鹿町において既に回収済であり、また右金員のうち一八九万一三九五円は原告ら主張の町民協への支出と、うち一一五万〇九三五円は原告ら主張の町同協欄の一般会計による備品購入費と重複している。)。
8 同8のうち、金員の支出については前項記載のとおりであり、右支出が違法であるとの主張は争う。
9 同9及び10の主張は争う。
10 同11の事実は認める。
五 被告らの主張
1 同和対策への取組み
(一) 同和対策特別措置法の制定施行の経緯等
(1) 同和対策審議会答申
第二次世界大戦の敗戦後、日本国憲法が制定施行され、基本的人権の享有(憲法一一条)、法の下の平等(同法一四条)、居住、移転、職業選択(同法二二条)、教育を受ける権利(同法二六条)等の諸権利が認められることとなつたが、徳川幕府以来長年に亘つて政治の「しずめ石」として「部落差別」が利用され、全国三百万人に及ぶ多くの人々が基本的人権を無視され、定職にも就けず、結婚の自由も奪われる等々右の憲法の理念に反する状態が継続していたのが現実の姿であつた。
かかる状況の下で昭和三六年一二月七日、内閣総理大臣は同和対策審議会に対し「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」について諮問し、同四〇年八月一一日「同和対策審議会答申」がなされた。右答申は、政府に対し、答申を尊重し、有効適切な施策を実施して、問題を抜本的に解決し、恥ずべき社会悪を払拭して、あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現されるよう万全の処置をとられることを要望し期待するものであるとしている(右答申前文参照)。
右答申は各種の調査についての結果をもその内容としているが、兵庫県は同和地区の数では広島県の四一四地区に次いで三〇〇地区を越える四つの県の中の一つであり、世帯数も大阪府と並び最も多く、地区人口は一番多いとの調査報告がなされている。
また、右答申は政府によつて実施された行政施策に対し、次のような総括的評価を行つている。
ア 明治の末から大正の初め頃までの政府による同和対策は、治安維持と窮民救恤の見地から行われた行政施策であつて、その基本的性格は慈善的恩恵的なものであつたことを否めない。ことに、当初地方改善行政の一環として行われた部落改善施策は、同和地区住民の自発的精神と自主的行動を基調とする生活改善運動として推進し発展させる方策がとられず、観念的、形式的な指導と奨励による風俗矯正にとどまつたきらいがあつた。
イ 大正の中頃全国的に勃興した自主的な改善運動は同和地区住民の自覚のあらわれであつたが、政府はそれにこたえて改善施策を積極的に行うことをせず、限られた僅かな予算で改善事業を慈恵的に行つていたにすぎなかつた。
ウ 政府が同和問題の重要性を認識するに至つた契機は、米騒動と水平社運動の勃興であつた。また明治時代から現代に至るまで一貫して、政府の同和対策は多分に切実な要求と深刻な苦悩に根ざす同和地区住民の大衆的な運動に刺激され、それに対応するための宥和の手段として行われた場合が多かつた。
エ 従来、政府によつて行われた同和対策としての具体的な行政施策は、応急的であつて、長期の目標に基づく計画性と複雑多岐な側面を持つ同和問題に即応する総合性とに欠けていたことは否定できない。このような行政施策の欠点は、いわゆる縦割行政の弊害から生ずるだけではなく、同和問題の根本的解決に対する政府の姿勢そのものに問題があつたといわなければならない。
オ 現段階においても、同和対策は一般行政に比し複雑困難な問題として扱われているかの感があるが、その正しい位置づけがなされないと差別的な特殊行政となるおそれがある。したがつて政府によつて行われる国の基本政策の中に同和対策を明確に位置づけ、行政組織のすべての機関が直接間接に同和問題の抜本的解決を促進するため機能するような態勢を整備し確立することが必要である。
カ 国と地方公共団体の同和対策が一本の体系に系列化され、政府、都府県、市町村、それぞれの分野に応じた行政施策の配分が行われ、国が地方公共団体の財政上の負担を軽減する配慮が十分になされるごとき組織的な同和対策が確立されていないことも、大きな欠陥として指摘される。そのため、同和対策を積極的に実施するところと、ほとんどそれを実施していないところと、地方公共団体の態度如何によつて生ずる格差が大きく、全国的にきわめて不均衡な状態である。
キ 国の予算に計上される同和対策の経費は逐年増額されている。しかしながら、同和問題の根本的解決をはかるために必要な種々の経費としてはきわめて僅少であつた。政府が真実に同和問題の抜本的解決を意図するならば、なによりもまず、国が同和対策のために投入する国庫支出は、その社会開発的意義と価値を正しく認識し、飛躍的増大をはかることこそもつとも必要なことである。
ク 以上の評価に立つと、同和問題の根本的解決を目標とする行政の方向としては、地区住民の自発的意志に基づく自主的運動と緊密な調和を保ち、地区の特殊性に即応した総合的な計画性をもつた諸施策を積極的に実施しなければならない。
右答申はかかる総括的評価、調査結果等をふまえて、同和対策の具体案を詳細に述べているのである。
(2) 同和対策特別措置法の制定施行
昭和四四年七月、国は同和対策特別措置法(以下、「同対法」ともいう。)を公布施行することとなつたが、右同対法は「この法律は、すべての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのつとり、歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域(以下「対象地域」という。)について国及び地方公共団体が協力して行う同和対策事業の目標を明らかにするとともに、この目標を達成するために必要な特別の措置を講ずることにより、対象地域における経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上等に寄与することを目的とする。」(一条)と規定し、国、地方公共団体の施策についての規定をおいている。詳細は後に述べるが、本件で原告らが違法な支出であると主張する各支出は、いずれも同対法六条六ないし八号、同法四条、八条、地方自治法二三二条の二に基づくものである。
(二) 南但馬における同和対策への取組み
(1) 南民協の結成
昭和二三年に南但の各町村と美方郡の村岡、美方の町村は、各町村の町村長・町村議会・関係機関・学識経験者等を構成員として南民協を結成した。南民協は憲法一四条の理念に基づき人権を尊重し、自由と平等の精神に従い、地域における差別を除去し、もつて明朗で平和な社会の建設に寄与することを目的として設置された任意団体である(南民協規約二条参照)。
南民協は右目的達成のため、①差別意識に対する啓蒙・民主化の促進、②同和行政・同和教育の推進、③各種の実態調査研究と資料の整備、④その他目的達成に必要と認める事業の各事業を実施するものである(同規約三条参照)。
南民協はかかる目的で結成されたものの、同対法が施行されるまでの間は国の施策と同様活発な事業をなさず、年に一回の総会と一回ないし二回程度の講演会を開催する程度にすぎなかつた。
(2) 町民協の結成
同対法が施行された後、南民協の下部組織として、各町において町民協の結成が是非とも必要であるとの南民協の方針が出され、南民協の指導助言のもと、その構成町においても審議した結果、昭和四五年末頃町民協が結成された。
町民協は人間の平等と基本的人権を根本理念とし、部落の完全解放を目ざし他の関係機関と連携し、事業の推進を図ることを目的として設置された任意団体である(町民協規約二条参照)。町民協は右目的達成のため、①国民の民主化促進に関する各種の調査研究を行うと共に促進事業を遂行する、②同和教育を推進して、啓蒙・啓発を行う、③その他必要と認めた事業を行うこととしている(同規約四条参照)。
町民協の目的が右のような目的であることから、町民をもつて組織され、町内各種団体の代表者並びに右目的に賛同する学識経験者で会長(町長もしくは教育長)が委嘱した委員で運営することとされている。
(3) 町同和教育推進協議会の結成
前述の南民協において、その部会の教育部会が、南民協の事業対象は実態差別の解消に意を注ぎ、環境整備を重点的に推進したが、部落差別の解消に最も困難にして重要な課題は心理的差別を如何にして解消するかであり、そのためには教育を通じる他なしとの趣旨の報告をなし、心理的差別解消の重要性を指摘した。同対答申にも部落差別としては心理的差別と実態的差別とがあり、「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文学や行為を媒介として顕在化する。
たとえば、言葉や文字で封建的身分の賎称をあらわして侮蔑する差別、非合理な偏見や嫌悪の感情によつて交際を拒み、婚約を破棄するなどの行動にあらわれる差別である。
実態的差別とは、同和地区住民の生活実態に具現されている差別のことである。たとえば、就職・教育の機会均等が実質的に保障されず、政治に参与する権利が選挙などの機会に阻害され、一般行政諸施策がその対象から疎外されるなどの差別であり、このような劣悪な生活環境、特殊で低位の職業構成、平均値の数倍にのぼる高率の生活保護率、きわだつて低い教育文化水準など同和地区の特徴として指摘される諸現象は、すべて差別の具象化であるとする見方である。
このような心理的差別と実態的差別とは相互に因果関係を保ち相互に作用しあつている。すなわち、心理的差別が原因となつて実態的差別をつくり、反面では実態的差別が原因となつて心理的差別を助長するという具合である。そして、この相互関係が差別を再生産する悪循環をくりかえすわけである。」(同対答申第一部同和問題の認識一、同和問題の本質参照)。とされており、心理的差別の解消は同和対策にとつて極めて重要なことである。そこで、各町においても、町同和教育推進協議会(以下、「町同協」という。)を結成することとなり、昭和四五年から同四六年にかけて教育行政関係者の学校教育関係者・社会教育関係者・運動団体その他の関係機関・諸団体等を構成員として町同協を設置し、全町民を対象とした同和学習とくに心理的差別の解消を推進した。
(4) B事件発覚までの南但地域における同和対策への取組み
同対法が施行されたものの、国や地方公共団体は、手さぐりの状態で、形式的な取組みしかなされず、南但地域においても同様であつた。前述のとおり、同対法施行前から結成されていた南民協及びその下部組織としての町民協並びに町同協の活動もそれ程積極的なものではなかつた。そして施行後三年を経過した昭和四六年頃から各町においてもようやく同対事業の調査の段階になり、これら調査と併行して、同和対策事業及び同和教育への初歩的取組に一歩進むこととなつた。
朝来町においては、昭和四六年町民協と町同協の共催による町内全域に亘る同和学習会を開催し、翌四七年も引き続き同様の同和学習会を続行した。そして昭和四八年には前二年間の実績成果について再検討した結果、各部落(二八部落)毎、またその団体毎(戸主、婦人、青年、老人等)に対し、会合の都度同和学習を組入れ、町から社会教育指導員を講師として派遣し、同和学習をより充実していつた。このような取組みは八鹿町や養父町においてほぼ同様であつた。
(三) 兵庫県の同和対策への取組みと南但各町に対する指導
(1) 兵庫県の同和対策への取組み
同和対策の具体的な取組みの方法として、兵庫県は昭和四八年度の第一四三回定例議会において、小野民生部長は「解同県連と連帯して同和行政を推進する」との趣旨の発言をなし、他の地方公共団体と同様、いわゆる「窓口一本化」の方針を打ち出した。そして、兵庫県は昭和四八年度の解同県連への補助として、二〇〇〇万円を出し、教育委員会に推進委員五六名(一人月額六万円)、知事部局に相談員三四名(一人月額五万五〇〇〇円)、職業経営指導員三〇名を配置した。
(2) 兵庫県の南但各町に対する同和対策施策への指導
兵庫県は前述のとおり「窓口一本化」をとるとともに、県下各市町村に対しても同様の指導を強力になし、またB差別文章事件発覚後は派遣社会教育主事制度を制定し同和教育の専門家である主事を県下の各教育事務所及び一部の町に派遣し同和教育の徹底を図つた。
更に豊岡総合庁舎内の県民局に但馬一市一八町の全首長を集め、宮下県同和局長は同対法の時限立法の期限後半を迎え、積極的に完全解放に取り組むよう強力な指導をなした。その指導の要旨は次のとおりであつた。
ア 解同の改組について
従来の組織《代表者の会議制》から、同対法の時限立法があと五年であることを意識して、全国的組織の中央、県、地方毎の組織結成をみたとの報告
イ 県は運動団体に対して、次のことを指導している。
(ア) 地区大衆運動として全支部員の自立意識の昂揚
(イ) 行政、教育に施策推進のために素材の提供等をスローガンとして活発な運動の展開
ウ 県は市町村行政に対し、次のような指導をする。
(ア) 住民のニーズを吸収して施策をすること
(イ) 差別事象をとらえて解消をすること(差別の実態に学べ)。
(ウ) 経費負担については
① 運動団体の要求は緊急妥当性を検討して解放につながるものには援助をすること。
② 公共事業費及び個人といえども支部を通じてすること(窓口一本化)
③ 支部活動費例えば運動団体の運営の事務局費、需要費、会議費等を負担しろ。
④ 広報活動費例えば解放運動のための自動車の燃料費、修繕費等
以上のような兵庫県の指導が強力になされた。
2 差別事件の発生
(一) B差別文章事件
(1) 事件の概要
県の中堅幹部職員Bが、同和地区の女子高校生と交際している長男に宛てた未解放部落を誹謗する内容の手紙を出していたことが、昭和四九年一月七日朝来郡和田山町で明るみに出て、厳しい批判をうけた事件である(昭和四九年一月三〇日神戸新聞掲載)。
因みに昭和四八年一一月発送した手紙の内容は次のとおりである。尚、この内容は、事件発生後の南民協の緊急拡大理事会において発表されたものである。
ア 同和行政と口では言つていても、同対審に基づく同対法が出来て五年経過しているが何も出来ていない。
イ 同和教育も部落の人の自由な結婚を前提として行われているに過ぎない。
ウ 私の勤める病院に約八〇〇人の職員がいるが、部落出身者は一人もいない。大学を出ても同和地区の人は就職出来ない。
エ 部落の人は、すぐ部落の中に引き入れ暴力をふるう。
オ 交際している女子高校生と結婚したら世間から部落と見られるし村八分として世間つきあいされない。
カ 昔は部落内に牛の頭がころがつていた。橋の向うにゆくと雰囲気がちがう。
キ 部落には、部落しか親戚がない。
ク 部落民は、部落の人としか結婚出来ない。
(2) B差別文章事件直後の差別事件
右B差別文章事件が発覚した後、引き続き南但各町において差別事象が明るみになつた。例えば、生野町では生野高校の在学生であつた女子高校生が部落差別が原因で自殺し、大屋町では行商をめぐる差別発言に基因しての自殺が生じ、関宮町では部落差別に基因する自殺があつた。
(3) 行政の対応
B差別文章事件の概要は右のとおりであるが、県の幹部職員として、時には同和教育の講師として差別問題を論じながら、こと我身に拘わる問題がおこれば、徹底した差別者となる姿を、行政担当者はことB個人の問題としてではなく、行政担当者の取組みの甘さと、同対法に明示してある国及び地方公共団体の責務を実態として味わうこととなつた。
またB差別文章は、それまでは日和見的であつた多くの部落解放同盟に加入せる人々を差別の実態に奮い立たせ、以来急速に、また積極的に部落解放運動を推し進めるようになつた。
南但各町では、南民協・町民協・町同協による差別解消への同和学習等を実施し、また町独自においても環境整備、生業資金貸付等の事業を実施し差別解消のための努力をなしていたが、B差別文章事件により、極めて不十分な取り組みであつたことを認識せざるを得なかつた。解放同盟は、行政の同和学習とはまさしく形式的で、その体質は部落民に対する差別心が本音であると、行政に対し同和学習の徹底を求めるとともに、行政及び教育機関への差別確認会が行われた。これら確認会において次々と差別の実態が明らかになり、部落民はもちろんのこと、一般地区の町民も差別の現実の下、同対法の規定する国民の責務たる「相互に基本的人権を尊重する」とともに「同和対策事業の円滑な実施に協力する」の重要性・緊急性を認識し町民ぐるみで急速に差別解消運動が推進された。
そして、右運動のための経費を南民協及び各町も前述の県の指導の方針に沿つて、補助をすることとなつた。
(二) 朝来町事件
(1) 同和行政、同和学習に対する妨害行為
ア B差別文章事件を契機に各町・各町教委・南民協・町民協・町同協並びにこれら各協議会に加盟する各種団体は「部落差別と闘うこと」が完全解放につながる唯一の道との自覚のもとに差別を許さない同和行政及び同和教育を推進し、一定の成果を挙げつつあつた。
かかる状況の下、兵庫県教職員組合朝来支部長Fは、かねてより兵教組朝来支部長の立場を利用して、郡内各学校分会に対し、解同と連帯して同和行政・同和教育を進める町の方針を中傷誹謗し、教育現場を混乱に落し入れ、とくに最近動きを見せ始めた但馬有志連グループを利用して解放どころか、差別を助長し、再生産するニュースを作成・発送・配布する等、社会意識としての差別概念をあおつて、対立と分裂をはかり朝来郡内の教員並びに住民を一層混乱に追い込んできた。
右Fらの行為は、日本共産党の方針に基づくものである。すなわち、同対審答申までは部落解放同盟に強い影響力のあつた日本共産党が、昭和四四年の矢田教育差別事件を境に解放同盟内での日本共産党員らは、昭和四五年五月部落解放同盟正常化全国連絡会議(以下「正常化連」という。)を結成し、爾来「窓口一本化反対」「暴力集団・利権集団・解同朝田一派」と反解同キャンペーンを行うようになつた。
但馬においても日本共産党系の強い影響下にあつた高等学校教職員組合(以下「高教組」という。)と日本教職員組合(以下「日教組」という。)の一部組合員は、住民に対し反解同キャンペーンを展開するに至つた。すなわち、昭和四九年七月中旬ごろから「部落解放運動の統一と刷新をはかる但馬有志連合」を結成し、同和対策事業や同和教育はますます部落と一般住民とを対立させることとなり、差別を拡大する役割をなしているとの内容のビラを広く住民に配布したりした。Fは、統一刷新有志連ニュース一号(昭和四九年七月一八日付け)、同二号(同月二九日付け)、兵庫県朝来支部発行の朝来支部報第五号(同月二九日付け)、同六号(同月三一日付け)、同七号(同年八月一四日付け)及び癸有志連発行の「この世の生き地獄……」と題するもの及び「深夜強迫で『新聞折込』を中止させ……」と題する七種類の文章の作成や配布に関与した。
これらの文書は解放同盟の行う確認会等に対する批判に急なるのあまり、批判の域を出て、これに対する恐怖心をいたずらにおこさせ、ひいては解放同盟や解放研を構成する被差別部落出身者に対する恐怖意識を刺激し、差別意識を助長する結果をもたらすものである。このような文書を広く住民に配布したFの行為は適切を欠いたものであり、当時各町や南民協あるいは県が真剣に取り組んでいた同和行政、同和学習に対する妨害行為であつた。因みに右Fの行為については神戸地方裁判所の八鹿高校事件等の判決においても強く批判されているところである。
イ 昭和四九年九月八日午後五時頃からFの指揮のもと町の同和教育を中傷し、差別を助長する差別ビラの配布を行つているところを、朝来町壱部落の現場で解同支部員に発見され、糾弾会が行われたのが壱事件である。この糾弾においてもFは終始黙秘してこれに応じなかつた。
(2) 朝来事件の概要
朝来事件の経過と概要をごく簡単に述べれば、南但地域の各町、各教育委員会が「部落差別と闘うこと、これ以外に部落の完全解放はあり得ない」との自覚のもとに、真の部落解放に立ち上つた解同各支部と、差別を許さない同和行政、同和教育を推進し、着々とその成果を挙げてきたとき、Fを中心として、町の同和行政、同和教育を中傷、誹謗し、教育現場を混乱におとし入れ、特に但馬有志連を利用し、部落解放に逆行する差別を助長し、再生産する文書を作成、発送、配布する等、社会意識としての差別概念をあおつて対立と分裂をはかり、朝来郡内の教員及び住民を一層混乱に追い込んできたことに対し、解同甲支部はF糾弾闘争を展開し、和田山警察署許可のもと昭和四九年一〇月二〇日より同月二六日までの間、F自宅前路上で糾弾会を実施したものである。右糾弾会の目的は、①特定の思想を持つて教育現場にあたり、学校に混乱を持ち込んでいることを糾弾する、②解同の規約、綱領の精神を誹謗し、国民的立場をわきまえないで日本共産党差別者集団の思想をもつて解放運動を妨害していることを糾弾する、とするものであつた。
右糾弾闘争は自治労但馬丹波ブロック、但馬教育委員会、兵教組朝来支部の各分会、育友会、各町議会ら九二団体が共闘することとなつたものである。
(三) 八鹿高校事件
いわゆる「八鹿高校闘争」の事実経過は以下のとおりである。
ア 事件の遠因と発端
同和問題は人類の普遍の原理である、人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によつて保障された基本的人権にかかる課題である。その早急な解決は、国をはじめ地方公共団体の責務として、同和対策審議会答申の精神にのつとり、同和対策事業特別措置法の早期具現化をはかり一日も早く部落完全解放が実現するよう努めている中で、高等学校や中学校においては、部落解放問題について本質的に取り組み研究するために、部落解放研究会(以下「解放研」という。)が設置され、多くの生徒が自主的に参加して熱心な研究と実践活動が進められていた。
ところが八鹿高等学校においては、従来から「部落問題研究会」のみ設置を認め偏向的な同和教育の枠から一歩も出ず、生徒の中に解放研の設置を熱心に望む声があるにもかかわらず、これを取り上げずに放置されていた。
たまたま去る昭和四九年六月二二日から二三日にかけて、但馬文教府において、但馬地区内高等学校の解放研の研修会があり、この会に八鹿高等学校の解放研設置を要望している生徒が参加し、同校教頭に解放研設置について強い要請が行われ、教頭は八鹿高等学校に解放研を設置することを約束した。
しかるに八鹿高等学校の職員会議が、解放研の設置を認めない決定をしたために、生徒に対する教頭の約束が宙に浮いた形となつた。
学校長としては事態を収拾するために教師団の説得に当つたが、不成功に終つたため、学校長の職権により解放研を設置することとし、小田垣教頭を解放研の顧問として配置することを決定した。
これを受けて、同年七月下旬に八鹿高等学校に二十数名の生徒を主体とする解放研が設置されたが、学校長のこの決定を不服とする教師団は、校長室に座り込みをして抗議を行う等あくまでも解放研の設置を拒否し、解放研は活動できない不正常な状態が続いていた。
このような教師団の同和教育に対する無理解な態度にしびれを切らした解放研に所属する生徒が、同年一一月一二日同和室の高本教諭に対し、解放研活動について話し合いの申入れを行つたのが今回の事件の直接的な発端である。
イ 糾弾闘争に至るまでの経過(以下いずれも昭和四九年である。)
一一月一二日
解放研の生徒が、八鹿高等学校同和室の高本教諭に対し、解放研活動を正常なものにするため話し合いを行うよう申入れを行つた。
一一月一四日
高本教諭から「一二日の申入れの件については教頭から解放研に連絡する」という返事があつたが、放課後になつても教頭からも、高本教諭からも解放研には返事がなかつた。
一一月一五日
昼休みに、解放研の生徒は高本教諭に対し、申入れの件について話し合い、一四日は教頭が出張していて不在のため返事ができなかつた旨の釈明があつたが、生徒達は納得せず校長室で返事を待つことを申し合わせた。
高本教諭は授業を受けるためそれぞれの教室に帰るよう、説得したが、「生徒達は納得する返事があるまで動かぬ」と言い、高本教諭との間に話のやりとりがあつたが、その間高本教諭から「同和教育は、県教委の方針にそつてやつているが、具体的には職員会議に諮つて決めた上で進められる。八鹿高等学校では管理職(校長、教頭)と教員との話合いがうまく進まない」と同和教育に対する同校の内部矛盾を露呈した。
結局高本教諭は、自分一人と生徒と一六日午後話し合いを行うことを約束した。
一一月一六日
一五日の約束によつて解放研の生徒は、放課後話し合いの準備をして待つたが、午後一時半教頭から「臨時職員会議の結果解放研生徒との話し合いはしない事になつた。」という返事があつた。
このため生徒は、電話連絡により、連合解放研に支援を依頼すると共に、高本教諭に約束を破つた理由の説明を求めたが、同教諭は「教職員会議は、解放研を認めない。」旨繰り返えすのみであつた。生徒達はこれに憤慨して、職員室前の廊下で高本教諭や、他の教師等と午後六時頃に至るまでやりとりを続けたが、結論が得られぬまま高本教諭は、多くの教師に抱きかかえられて生徒の制止を振り切つて校外へ連れ去られた。
一一月一八日
解放研の生徒は、三項目の要求(別記1参照)を学校側に提出し、納得のゆく回答を求めて午前七時頃から職員室前の廊下に座り込み抗議に入つた。
県教委、育友会は事態を重視して、それぞれ学校において会議を開き、教師団に対し生徒達と話し合うよう説得を続けたが、教師団は耳をかそうとしなかつた。
一一月一九日
解放研生徒の座り込みは前日同様に続けられ、学校内の事態は何等の進展を見られなかつたが、南但地域の部落解放同盟各支部及び八鹿高等学校育友会、自治労、兵教組等の諸団体は八鹿高等学校教育正常化共闘会議を設置し、七項目(別記2参照)の闘争方針を立て、抗議集会を開く等、解放研生徒の支援態勢に入つた。
ウ 糾弾闘争の経過
一一月二〇日
解放研生徒の座り込み抗議は引続き行われたが、教師団は、事態収拾について何等誠意ある処置をとろうとしないばかりでなく、徒らに部落解放同盟の態度を非難するビラの配布等、差別性が露呈されるに及び、教育正常化共闘会議は、八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議に名称を改め、抗議闘争から糾弾闘争に移行した。
一一月二一日
解放研生徒の座り込み抗議は引続いて行われた。県教委、育友会役員、学校長等により教師団に対する説得が連日精力的に行われたが、何等の進展が見られなかつたため、座り込みを行つていた生徒達二一名は、午後四時から断食闘争に入つた。教師団はこれを無視して、集団で下校した。
午後六時半から開始された共闘会議の糾弾闘争は、一一〇団体の支援共闘の下に、デモや抗議糾弾集会が約三時間にわたつて熱気溢るる中で繰りひろげられた。
一一月二二日
(ア) 解放研生徒の断食闘争は昨日から引続いて行われていた。
(イ) 他の生徒は平常通り登校したが、教師団は、午前九時一分貸切バスで登校し、通用門から入校してその足で教室に入り、言い合わしたように「本日は授業を中止する。」と一方的に宣言して、直ちに図書館に集つて会議を持つた模様である。
(ウ) この間に生徒会の代表四名が一部の教師団に対して「断食闘争を行つている生徒を見殺しにしないために是非話し合いに応じてやつてほしい。」と涙を流して訴えたという事である。
(エ) 学校長は、教師団の一方的な指示により、授業が放棄されようとしている事を知り、直ちに平常通り授業を行うよう、口頭で職務命令を教師団に伝えたが、教師団はこれを受け入れず、図書館を出てその附近に居合せた生徒に「今から校門附近で起きる事態をよく見ておけ。」と言い残し、午前九時半頃約五〇名の教師はスクラムを組んで校門を出て行つた。
(オ) この状態を見て数名の共闘会議側の人達が、学校に帰るよう制止したが、教師団はそれを振り切つて町内へ出て行くうち朝倉酒店附近で、次第に数を増して来た共闘会議側の人達に押し返される状態となつたため、教師団は、その場に座り込んでしまつた。共闘会議側は「交通の邪魔になるから学校へ帰つて話しあおう。」「明日から連休に入るので、このまま皆さんに帰られてしまうと断食闘争を行つている二一人の生徒を見殺しにすることになる。すぐ学校に帰つてほしい。」と言い続けたが、教師団は黙秘したまま座り込んだり、寝そべつて動かないため、実力によつて学校に帰そうとする共闘会議側の人達と、教師団との間に力づくの混乱事態が発生し、この状態は一部学校の旧体育館内にも持ち込まれた様子である。急を聞いてかけつけた部落解放同盟南但支部連絡協議会長の制止によつて一応平静にかえつたが、この間に多数の負傷者が出るところとなつた。
(カ) この一連の動きを見ていた生徒達は、大きな衝撃を受けたらしく、約五〇名の生徒が八鹿警察署にかけつけて事態収拾を訴え、その場で抗議デモを行う許可を取り、昼過ぎから、屋岡橋上流の川原にある駐車場に続々と集結を始め、「暴力追放、先生返せ」を訴えるデモ行進を実施する動きを見せるに至つた。
(キ) 学校では、午前一〇時半頃から有線放送等を通じて、保護者全員の緊急登校を要請し、午前一一時四五分頃玄関前において、育友会の緊急総会が開かれ、辻本会長から声涙共に下る経過報告が行なわれた。
(ク) 生徒の動きをみて、事態のこじれるのを恐れた県教委や、わが子の身を案ずる父兄並びに共闘会議構成員は、八鹿町役場西側道路上に続々集まつた。
午後一時頃から抗議のため、さまざまな意見を述べる生徒達、それに答える共闘会議々長、生徒に冷静さを取りもどさせ、事態の収拾をはかろうとする八鹿高校育友会、八鹿町長をはじめとする南但各町の町長、八鹿高校長、八鹿町教育長の提案が、生徒の発言とこもごもする中で、南但民主化協議会長の「このたびの事象は、極めて残念である。この収拾は南但の各町長が身体をはつてやる。八鹿高校の同和教育について、正しいルールによる話し合いができるようなデスクを設ける。」という提案がなされ、三名の教師からこのような事態を引き起した事に対する反省の言葉があり、生徒達からはしばらくの間種々の発言があつたが、次第に事態は鎮静化に向い、やがて生徒達による「暴力追放」の決議がなされた。これを受けて、部落解放同盟県連代表から「このたび発生した事象は、はなはだ遺憾なことであつた。しかし、この不幸な事態の中からではあつたが、共通の話し合いが持てるよう解決の道がひらけるに至つたことは、大きな意義があつたと思う。今後正常な授業ができるように努力するし、またどんな場合にも暴力的な事態は絶対行われないようにする。現在生徒がやつているハンガーストライキは責任をもつてやめさせる。」という意味の発言を最後に生徒の抗議集会は終了して、午後五時頃解散となつた。
(ケ) 予定されていた午後六時三〇分からの集会は、状況の変化により午後五時にくり上げられ、昨日と同様八鹿高校前庭において開催された。
朝からの緊急かつ重大な事態に直面したことをふまえて、全但馬的規模により連帯する約三万人(推定)が、八鹿高校教育の正常化と、正しい同和教育推進態勢の確立を強く要求した。
(コ) 集会の終了とともに、教師団に対して確認と糾弾が午後一〇時三〇分頃まで行われた。
一方八鹿高校育友会総会がもたれ、改めて経過報告がなされ、正しい理解と協力が求められた。
(サ) 二一日午後四時から決行されていた三一時間に及ぶ断食闘争は、午後一一時頃中止され、直ちに八鹿病院において医師の診療を受け健康管理について指導を受けた。
(シ) 八鹿病院の発表によると、負傷した教師等は同病院で四三人が医師の診察を受け、うち二八名が入院した。
なお共闘会議側にも数人の負傷者があつた。
一一月二三日
午前一〇時から八鹿高校差別教育糾弾闘争勝利大集会が八鹿高等学校運動場で開かれ、全但馬から六万人(推定)の解放同盟支部員及び連帯して共闘する各種団体が参加し、八鹿町内のデモ行進をもつて終了した。
又、前夜八鹿病院で医師の診療を受けた生徒のうち八名が入院した。
別記1
八鹿高校教育正常化闘争
要求事項
一 八鹿高校解放研の顧問をさらに三名つけること。
(但し、その人選は、解放研の希望を受け入れること。)
二 八鹿高校解放研と先生との話し合いをもつこと。
(但し、但馬地区高等学校連合部落解放研究会並びに各役員を含むこと。)
三 現在、八鹿高校の同和教育は、部落の解放とすべての生徒の幸せにつながつていないことを認めること。
八鹿高等学校
部落解放研究会
別記2
八鹿高校差別教育糾弾闘争
闘争方針
一 八鹿高校の生徒に意義を徹底する。
二 八鹿高校の差別教育の実態を全但馬住民に知らせる。
三 解放研の要求貫徹をはかる。
解放研はすわりこみを続け、各組織は必要に応じて、動員その他の闘いを行う。
四 解放研の生徒より断食闘争の申し出があるので、状況により、その闘いを具体化する。
五 八鹿高校育友会では、同盟休校、その他、具体的な抗議行動の用意があるので具体化する。
六 この闘いを、真の民主主義実現を願う全但馬住民と、差別思想、差別教育の対決として位置づける。
七 五万人以上の総括集会を行い勝利を宣言する。
八鹿高校
差別教育糾弾闘争共闘会議
(四) 各事件についての原告らの宣伝について
原告らは、右一連の行為について、逮捕監禁、暴行、強要および傷害等の犯罪行為であるとし、告訴をなした。そして、原告らの宣伝は独断と偏見に基づき針小棒大なものである。例えば、大薮事件についても、当時の養父町長Qは次のような事実を確認しているのである。すなわち、
昭和四九年一〇月二七日大藪事件なるものを報道した「日共」中央機関紙「赤旗」の内容は、Qは当日午後三時頃、確認会は終了し、散会後に大藪公会堂に到着したのに、「赤旗」は「町長立会のもとで……」と一方的に事実に反する記載をなし、又、八鹿警察署長から私に「橋」のところまで吉井父子を連れて来てほしいとの連絡で、私は宮本総務課長が運転する町公用車に、吉井父子を乗せて約一粁離れた大藪橋迄行き、吉井誠一君は東中代議士らと話し合い、私はボイコットされた形で約三〇分待ち、吉井父子を再び乗せて、吉井宅へ衣服の着換えのため行き、公立八鹿病院(約三粁)で診断を受けさした。……赤旗では「東中代議士に救出されて自宅に帰り……」と記載している。
刑事々件では吉井父子は「長時間に亘り、何十回となくなぐる、蹴るの暴行を受けた」と主張したようであるが、実際は医師の診断は全治二日で明日は来院しなくてもよい、というのであり、東中代議士らと午後八時に八鹿警察署で会う約束をしているからと吉井誠一君が言うので、約三〇分間待つも誰も現れず、八時半に警察署隣のラーメン屋で夕食として我々一行四名はラーメンを食べた。」ことを自認している。
数十回も顔をなぐられていたのが事実ならば、ラーメンは食べられなかつたはずである。
このように原告らの宣伝は「独断」と「偏見」「針小棒大」という言葉そのものである。
この件については、右Qやたまたま右のような事実を知つていたことから明確に原告らの主張する暴力行為たるものが極めて針小棒大に宣伝されていることを指摘しえるのであるが、他の事件についても全く同様であると判断せざるを得ない。
3 本件支出の適法性
(一) 各事件の意義
(1) B差別文章事件の意義
ア 前述のとおり、昭和四九年一月に発覚した県の幹部職員Bの差別文章事件及びこれに続く差別事象は、当時の南但地域の各町の行政担当者に強烈な衝撃を与え、それまでの同和行政、同和教育への取組みの甘さを痛感させられた。
右事件は県の職員の言動が原因であることから兵庫県においても積極的に右事件の解決ならびに差別解消に取組むきつかけとなり、前述のとおり、昭和四九年の夏頃県の宮下同和局長が豊岡の県民局に但馬一市一八町の首長を集め、解同との連帯、差別をとらえて差別に学ぶこと、経費の補助等について強力な指導をなした。
南民協においても右事件の発覚後臨時拡大理事会を開催し、それ以降も再三理事会を開催し、構成町の町長、議会議長などが協議を重ね、昭和四九年度の事業計画案を立案した。
右の事業計画案では、
「本年一月極めて遺憾な部落差別文章事件が発生するにおよび、あまねく普遍的に社会意識として残り続ける差別意識の根強さを、さまざまとみ、吾々の取組みの不充分さを厳しく反省し、同和問題の原点に立ちかえり全組織をあげて、それぞれの社会的立場において、峻厳なる自己点検、自己学習に徹し、運動団体の活動を支援すると共に、行政、教育の機能をあげて完全解放に邁進することを決意したものである。
ここに行政、教育の責務をになうものはもとより、地域住民のすべては、この差別事件の社会的体質を明らかにするため、徹底的に、自己変革、社会変革への行動を起し、完全解放の責任を明らかにしなければならない。
このためには、教育の使命は極めて大きく、ことに社会教育の分野における徹底的な総点検と社会教育の諸条件の整備は喫緊かつ最重要課題である。本会はかかる見地から昭和四九年度の事業は別記のとおり行政、教育の総点検、総学習を図り運動との密接な連帯のもと、真に解放につながる学習の強化を重点として事業を推進し、これが各町、各県地方機関の実践活動に生かされることにより同和対策特別措置法後期突入の年を総行動、総実践の年として位置づけんとするものである。
記
社会に普遍的に存在する差別観念を根絶する道は社会意識の変革である。そこで行政の責任として各町民主化協議会と連絡を密にし、具体的積極的に研修会、懇談会等を開催し、同和問題解決への啓蒙、啓発を促す。
(ア) 研修会の開催
① 各町三役、町議会議長、各町議会常任委員長、教育長、公民館長を対象とする研修会を開催する。
時期 七月(二回に分けて実施する)
場所 文教府 一泊二日
② 県行政機関、各教育機関、各種団体等の責任者を対象として研修会を開催する。
時期 九月(二回に分けて実施する)
場所 文教府 一泊二日
③ 各町民主化協議会と共催で、各種団体並びに住民に対する研修会の充実強化を促進し、社会教育の徹底をはかる。
年間
④ 各行政、教育機関、団体関係職員の研修を深めるため「大地の夜明け」第二部を教材とした学習会を開催する。
全体 一回
各町毎 数回
時期 月日
(イ) 本協議会としては、地方公共団体、行政、教育機関等の幹部研修、啓発資料並びに住民を対象とした啓発資料を作成し、広報教育活動につとめる。
(ウ) 部落差別を解決するには、対象地区の実態に学ぶ中で差別の本質を明らかにしなければならない。このため各町で実施されている行政点検結果を整理し、広域的な問題点について点検を実施する。
時期 一〇月
(エ) 差別事件にかかる糾弾学習会には、部落の完全解放と部落差別の本質を学ぶため必らず参加する。
(オ) 行政は教育とともにその全機能をあげ、部落解放同盟南但支部連絡協議会と密接な連絡協調を保ちつつ同和行政の理念確立と的確な位置づけを図り、総合的効果的な推進をはかる。」
としているのである。
イ 右の南民協の昭和四九年度事業計画案は第二七回定期総会で承認され、推進された。
このようにB差別文章事件は、南但地域における差別の現実を町行政担当者、各種団体、部落民及び町民全てに対し強く認識させ、特に行政に対しては部落差別解消のための行政のより積極的な、より厳しい施策、同和学習の推進、運動団体との連帯の必要性等を認識させることとなり、南但地域における同和行政の転機となつたものである。
(2) 狭山闘争の意義
ア 「狭山闘争」といわれるのは、いわゆる狭山事件のK被告人が強盗殺人等の罪に問われ、一審の浦和地裁で死刑、二審の東京高裁で無期懲役の判決言渡しがあり、同被告人が、警察の捜査が部落差別の予断と偏見に基づくものであり、自白は強要されたものであるとして、最高裁に上告している事件につき、事実審理と公正な裁判を求めるため部落解放同盟が中心となつて行つている大衆闘争である。
右闘争は、「寝た子を起こすな」式の部落解放を排し、自らの手で部落解放を勝ち取ろうとする自覚的自主的な部落大衆が右事件に直接携つた警察、裁判の過程で、部落差別に基づく予断と偏見が払拭されていないためこれと闘い、その闘いを通じて、部落の完全解放、部落差別の解消を目ざす運動である。
イ 右の運動は、前記B差別文章事件の発生により、丁度兵庫県や南但地域において部落解放、差別解消への運動がたかまつている時期と一致するものであつた。そのような事情もあつて、兵庫県、特に県教育委員会も、狭山裁判は本質で同和部落民に対する差別裁判であるとの位置付けをし、無罪判決を求める運動を展開し、南但各町においても、右県の方針や町独自の検討の結果、同和地区の人達がこの運動に参加するための経費について一部を助成することは部落解放につながるものと判断したものである。
(3) 朝来事件の意義
朝来事件は前述のとおり、南但地域の各町や南民協・町民協・町同協が同対法の行政の責務に基づき、差別解消のため、同和行政、同和学習を推進していることに対し、右行政は「逆差別」を生むものであるとか、解同の行う確認会等に対し恐怖心をいたずらにおこさせ、ひいては解同や解放研を構成する部落民に対する恐怖意識を刺激し、差別意識を助長する行為をなしたFに対する確認糾弾であり、行政としても、差別の実態の中に差別を学び、その解消につとめるために、解同の運動にあらゆる団体、組織が共闘したものである。
(4) 八鹿高校事件の意義
同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によつて保障された基本的人権にかかる課題である。その早急な解決は、国や地方公共団体の責務であり、同対法の早期具現化をはかり、部落完全解放に努めている。このような行政の施策と目的を同じくして、高等学校や中学校においては、部落解放問題について本質的に取り組み研究するために解放研が設置され、多くの生徒が自主的に参加して熱心な研究と実践活動が進められていたのである。兵庫県においても県教育委員会は右のような方針であつた。ところが八鹿高校においては、右設置を管理職が認めながら、本来的には何らの決定権を有しない職員会議がこれを認めないとして、設置を求める生徒達の願いを無視し、話し合いにも応じず、集団下校をするような教育者として許されない行動に出た。そこで、自治労、兵教組を中心とする各労働組合、育友会、南民協など合計二一〇団体が共闘会議を結成し、八鹿高校の教育正常化を求めたのが八鹿高校闘争であり、部落完全解放のための闘いであつて、それに要した経費を補助することは同対法によるものである。
(二) 本件支出について
(1) 南民協・町民協・町同協への支出
ア 原告らは南民協・町民協・町同協に対し支出したことが違法であると主張するのでこの点について反論する。
なお、原告らは八鹿高校闘争の経費として南民協に七〇三万三二一五円の支出をしたと主張するが右が回収されていることについては後に述べる。
南民協の組織、目的および事業内容等については前述した(五1(二)(1)参照)が、その目的は憲法一四条の理念に基づき人権を尊重し、自由と平等の精神に従い、地域における差別を除去し、もつて明朗で平和な社会の建設に寄与することであり、その事業としては右目的達成のため①差別意識に対する啓蒙、民主化の促進、②同和行政、同和教育の推進、③各種の実態調査研究と資料の整備、④その他目的達成に必要と認める各事業を実施することとしているのである(南民協規約参照)。右の目的は同対答申の精神に沿うものであり、同対法の目的にも合致し、またその事業は同対法の国、地方公共団体の施策にも合致するものである。
すなわち、同対法は、すべての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのつとり、歴史的社会的理由により、生活環境等の安定向上が阻害されている地域について国及び地方公共団体が協力して同和対策事業を行い、右地域における経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上に寄与することを目的としているのであり(同対法一条参照)、南民協の目的と合致するものである。また、同対法は、国及び地方公共団体の責務として、「国及び地方公共団体は、同和対策事業を迅速かつ計画的に推進するように努めなければならない(同法四条)」とし、同和対策事業の目標として、「同和対策事業の目標は、対象地域における生活環境の改善、社会福祉の増進、産業振興、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化等を図ることによつて、対象地域の住民の社会的経済的地位の向上を不当にはばむ諸要因を解消することにあるものとする(同法五条)」と規定し、国、地方公共団体の施策として、「対象地域の住民に対する学校教育及び社会教育の充実を図るため、進学の奨励、社会教育施設の整備等の措置を講ずること(同対法六条六号)」、「対象地域の住民に対する人権擁護活動の強化を図るため、人権擁護機関の充実、人権思想の普及高揚、人権相談活動の推進等の措置を講ずること(同法同条七号)」、「前各号に掲げるもののほか、前条の目標を達成するために必要な措置を講ずること(同法同条八号)」としており、南民協の前記各事業と合致する。
地方自治法は普通地方公共団体の寄附や補助についての規定をおき、公益上必要がある場合は寄附又は補助をすることができるとしている(同法二三二条の二)のであり、本件で原告らが違法支出であるとする南民協への負担金(地方自治法上は補助金)は、右南民協の目的や事業が同対法一条、六条六ないし八号、同法四条、五条、八条に規定する同対法の目的、国や地方公共団体の責務、国・地方公共団体の施策と合致するものであり、更に各町の町長や議会その他関係機関を構成員とするものであるところから、これに対する補助はまさに公益上必要なものといわざるを得ない。したがつて原告らが不当支出であると主張する南民協に対する各支出は全て地方自治法二三二条の二に基づく補助金として正当なものである。
イ 南民協では、昭和四九年一月のB差別文章事件が発生したことから、兵庫県の強力な指導、南民協構成各町長等による検討の結果、B差別文章事件及びそれに続く幾多の差別事象における差別の実態を認識し、差別解消への施策として、学習会の徹底や、行政担当者自らが学習をなすこととなつたが、差別を解消するためには、いかなる差別が実在するかをまず把握する必要があり、そのためには差別事象の実例を解同から提供してもらうことが欠かせないことであつた。右の目的を達成するためにはそのための事務所の設置や資料集めのための経費等を要することは当然であり、和田山に設置された右目的達成のための解同事務所に要する経費については、南民協が解同に援助することとしたものである。
右の経費援助についても、南民協はその会長、副会長が窓口となり解同と再三協議し、県の経費援助に関する方針とも一致すべく、必要最少限にとどめたものである。
南民協の会計は、その収入のほとんどを構成町の補助金からまかなうことになつているが、構成町一〇町の負担割合は均等割、町人口割及び地区世帯数割となつており、その比率は昭和四九年度についてはそれぞれ0.3、0.3、0.4である。そして昭和五〇年度は0.3、0.5、0.2の負担率である。右のように補助金を各町が負担することは地区世帯数の僅少な村岡町や美方町も多額の補助金を負うことになることを示すものであるが、右両町も部落解放のための南民協の施策を国民的課題であり行政の責務であると深く理解し、右補助金を負担しているのであり、本件南民協への支出が構成町の全てにとつていかに重要な行政の責務と認識されていたかを如実に示すものである。
(2) 備品購入費
備品購入費はテント、毛布、ストーブ等の備品を町の備品として町が購入した費用であるが、右備品を購入したのは、B差別文章事件、Fの差別を助成し再生産する言動等多くの差別事象が発生する中で、南但各町は県の指導にもある「差別の実態の中に差別解消を学ぶ」ことにより、差別解消という国民の責務、行政の責務を遅まきながらも積極的に遂行することとなつたのである。そしてそのためには、行政はもちろんのこと差別される側の者達の差別解消に対する意識の高揚や一般住民に対する人権思想の普及高揚等広報活動、学習会活動が重要な施策として位置付けられたのである。このことは同対法においても国や地方公共団体の施策として明記されているところである。右の施策を速かに効果的に遂行するためには、人的、物的な整備が必要であり、特に八鹿高校における差別教育を正常化することは、八鹿町はじめ南但各町の行政の責務であつた。その教育正常化にむけての運動は各町議会、育友会、婦人会、自治会等あらゆる団体が共闘して行つたのであり、そのためには前記備品が是非とも必要であつた。そのような必要性から購入したものであり、もちろんその後も町の備品として必要の都度使用しているものであり、違法支出ではない。
(3) 解同支部への補助金
解同支部に支出した一九四万六〇〇〇円はいわゆる狭山闘争関連の費用であるが、狭山闘争の意義は前述(五3(一)(2)参照)のとおりであり、狭山事件のK被告人が強盗殺人等の罪に問われ、一審の浦和地裁で死刑、二審の東京高裁で無期懲役の判決言渡しがあり、同被告人が警察の捜査が部落差別の予断と偏見に基づくものであり、自白は強要されたものであるとして最高裁に上告していた事件につき、事実審理と公正な裁判を求めるための解同が中心となつて行つている大衆闘争である。右運動については、当時全国の地方公共団体の大多数が狭山裁判は本質で同和部落民に対する差別裁判であるとの位置づけをし、無罪判決を求める運動を展開していたのである。兵庫県においても右と同様の判断で県下の各市町村に対し、強力な指導助言をし、南但地域では、県の出先機関である但馬教育事務所が南但各町に指導助言を行つた。そのような状況の下で、南但各町も狭山裁判を本質では同和部落民に対する差別裁判であるとの位置づけをし、無罪裁判を求める運動を展開することとなつたのである。各町においても議会でその旨の決議をなし、右運動を推進していつたのである。
右の運動を推進するためには町独自の行動とともに解同と連帯して行うことが事柄の性質上やむを得ないことであり、集会に参加する同和地区の人達に対しその交通費等一定の枠内で補助することは右運動を町が推進する以上必要な経費となるのである。
(4) 南民協への支出七〇三万三二一五円について
八鹿高校闘争関連の費用として八鹿町は七〇三万三二一五円を立替払いしたのであるが、右金員はその後全て回収されている。
すなわち右七〇三万三二一五円は内容によつて、①南民協で負担すべき経費三九六万〇七六五円と、②八鹿町が負担すべき経費三〇七万二四五〇円に分類されるのであるが、このうち三九六万〇七六五円については、南民協特別会計負担金として八鹿町に課せられていた六二七万一八〇〇円と相殺しており回収返還されている(昭和五〇年二月一九日支出負担行為書兼支出決定書第八四七三号で三二七万一八〇〇円、同日第八四七四号で三〇〇万円を一般会計で支出し、同日戻入伝票で三九六万〇七六五円を収入している。)。
また三〇七万二四五〇円は支出内容に応じ備品購入費一一五万〇九三五円(原告らが町同協への支出として主張する一一五万〇九三五円のことである。)と町民協負担金一九二万一五一五円に区分し、備品購入費一一五万〇五三五円は一般会計で支出した。町民協負担金については精査したところ、解同丁支部が負担すべき支出(みかん代等)が含まれていたため、明細書を渡し請求したところ、同支部から三万〇一二〇円が返還された。その結果町民協負担金は差引一八九万一三九五円となつた(この一八九万一三九五円は原告らが町民協への支出と主張する一八九万一三九五円のことである。)。
以上のとおり八鹿町が負担すべき経費三〇七万二四五〇円についても、それぞれが負担したため回収でき、戻入伝票をもつて三〇七万二四五〇円を収入し、立替金全額につき精算したのである。
したがつて七〇三万三二一五円は回収済みである。また仮に右主張が容れられないとしても、三〇七万二四五〇円については三万〇一二〇円は支部から返還され、一一五万〇九三五円と一八九万一三九五円は原告らの請求としては重複していることになる。また南民協の負担金については適法な補助金であることは既に述べたとおりである。
(三) 支出の適法性
(1) 本件支出の法的根拠と目的
ア 原告らは南民協・町民協・町同協へ支出した負担金、町が毛布等を購入するため支出した備品購入費、解同支部へ支出した支部活動費等の全てが帰するところ、解同の活動費を町が肩代わりしたものであり、違法支出であると主張する。
しかし、右原告らの主張は同対法を無視した独自の見解によるものであり誤つたものである。すなわち、原告らは差別解消のために解同が活動するについては、その費用は一切解同が自らの資金により行うべきで、町がそれに対し補助することは全て違法であるとの基本的な考えのもとに本件支出は全て違法であると主張しているのであるが、そのような考え方では同対法の目的は到底達成できず、国や地方公共団体の責務を放棄することに等しいのである。同対法は「すべての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのつとり、歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域(以下「対象地域」という。)について国及び地方公共団体が協力して行なう同和対策事業の目標を明らかにするとともに、この目標を達成するために必要な特別の措置を講ずることにより、対象地域における経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上等に寄与することを目的とする。」(同法一条)ものであり、その目標は、「対象地域における生活環境の改善、社会福祉の増進、産業の振興、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化等を図ることによつて、対象地域の住民の社会的経済的地位の向上を不当にはばむ諸要因を解消することにあるものとする。」(同法五条)である。このような目標を達成するための国や地方公共団体の責務につき具体的な規定を設け、更に「同和対策長期計画」により、より具体的な各省の施策を定めているのである。
同対法は昭和四四年七月一〇日施行されたものの、昭和五四年三月三一日限り効力を失うとする時限立法であり、さらに長年に亘つて根深い差別意識が国民全ての心の中にあり、また地域によつても差別の実情が異なるところから、国や地方公共団体も法律が施行されたにも拘らず、積極的な取組みが困難な状況にあつたのである。このような状況は兵庫県の南但地域においても同様であり、特にこの地域は対象地域が多く、よく行政の取組みは困難な状況にあつた。対象地域の住民はほとんどが日雇い労務者であり、安定した定職に就く者は皆無に等しく、教育においても義務教育を受けるのが精一杯といつた経済的にも、生活環境においても極めて劣悪な状況に置かれていたのである。南但各町においても、南民協や町民協の組織により、また町独自の行政により、ある程度の差別解消に向けての施策をなしていたが、同対法の精神から見れば極めて不十分なものであつた。そのような中でB差別文章事件という公務員による差別事件が発生したことが、南但各町の同和行政積極化の最大の理由となつた。
差別が存する場合この差別を早急に解消するためには、同対法にも規定しているように住民に対する人権擁護活動の強化、人権思想の普及高揚、社会教育、学校教育の充実等をなすための施策を国や地方公共団体が実施しなければならず、このような施策は事の性質上行政が単独でできるものではないのである。対象地域の住民の人権思想の普及高揚のための施策を実施するとしても、この住民の協力がなければできず、経済的に極めて劣悪な状況にある住民に協力を求めるには一定の範囲内での経済的な援助をなさない以上不可能である。このような行政の理解は朝来町、八鹿町および養父町に限つたものではなく、兵庫県においても同様であり、当時としては、ほぼ全国の地方公共団体の一致したものであつた。
以上述べたとおり、差別されている者やその団体が、差別解消のために運動する場合はその者たちの独自の資金によつて全て賄うべきであり、行政が公金を補助することは違法であるとの原告らの主張は同対法の行政の責務、施策を実施するなと言うに等しく、同法の目的や目標、行政の責務、施策についての誤解に基づく独自の誤つた主張である。
イ 本件支出については、補正予算の議決を得ているのであるがその際町議会で十分審査し、議決を得て執行したものであり適法な支出である。もちろん議会においては支出の目的等すべての事情を明らかにして審議され、圧倒的多数の議決を得ているものであるから、仮に議会の議決を得たものであつてもそのことだけでは違法性は阻却されるものでないとしても、当時の議員の大多数が正当な支出であると判断していたことは事実である。議会の予算議決は、執行機関に対し予算執行の権限を与えるにすぎず、公金支出の原因が適法であることまで確定する効力がないものではあるが、本件支出については、住民全てに関わる重大な案件として、議会でも詳細な説明をなし慎重に審議しているのであり、また現に公金を支出するという予算執行の時点においても議会あるいは委員会、議員協議会等で説明し、了承を得ているのである。もちろん、財政力の弱い町においては、兵庫県との財政面における協議により特別交付税等の財政援助の見通しもたて、住民の声を反映すべく助役、各課長、各係長、一般職員も含め充分内部協議の上で諸情勢を判断し、議会に提案しているのであり、町長はじめ町議員一体としての判断で支出したものである。これらの点からみても本件支出は適法であるといわなければならない。
ウ 地方公共団体の支出の方法は地方自治法二三二条の四第二項に規定するように、収入役は長の支出命令を受けた場合にも、当該支出負担行為が法令又は予算に違反していないこと及び当該支出負担行為にかかる債務が確定していることを確認したうえでなければ、支出することができないのであるが、収入役は適正であるとして判断して支出しているものであり、本件支出は正当である。
エ 地方自治法は地方公共団体の決算についての規定を設け、毎会計年度毎に予算執行が適正になされたか否かを審議することとしているが、本件各支出については町議会で決算認定を得ているものであり、この点からも本件支出は正当な支出である。
オ 原告らのなした住民監査請求に対しても監査委員は違法・不当な公金支出と判定することはできなかつたとして本件支出を正当な支出であると判断している。
カ 本件支出のうち南民協・町民協・町同協への支出については同対法六条六ないし八号、八条、五条、四条による地方公共団体の責務と目的を同じくする南但一〇町で構成された任意団体である南民協や、その町単位の組織と位置づけられる町民協・町同協への支出であり、一〇町が十分協議し、更に町議会でも十分審議して、一〇町が統一行動したものであり地方自治法二三二条の二の補助金として正当な支出である。
キ 本件支出のうち備品購入費については町が解放行政を推進するうえで不可欠な備品であり、同対法による支出であつて適法である。
ク 支部活動費等についても、その支出が地方自治法二三二条の二の補助金として正当な支出であることは既に述べたところであるが、更に若干付言する。八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議には南但一〇町の町議会をはじめ、各小・中育友会、婦人会、自治会、森林組合、商工会、自治労など各労働組合等日本共産党系以外のあらゆる団体が共闘しており、南但一〇町連名の声明書に記載のとおり絶対多数の住民が参加する右共闘会議への補助は住民の要望であり、この共闘会議に部落解放同盟員が苦しい生活環境の中から部落の完全解放をめざして積極的に多数参加していたのであつて、これに対する費用弁償的補助は同対法の行政の責務として地方自治法二三二条の二の補助金として正当である。
また狭山闘争関連の支出は、前述のとおり、全国的な運動の中で、各地方公共団体は狭山裁判は本質で同和部落民に対する差別裁判であるとの位置付けをし、無罪判決を求める運動を展開していたのであり、特に南但地域においては、差別事象が明るみにされたことと重なつて運動が盛り上り、各町も支援することとなつたものである。この方針は兵庫県の強力な指導によるものであるが、右指導を南但地域においてなす県の機関は但馬教育事務所であつたが、同事務所の所長補佐であつた中村繁次は養父町の教育長に就任したこともあつて、県教育委員会の方針を忠実に実践していつた。このような特殊事情もあつて養父町においては狭山闘争関連費用として解同に補助した金額は、八鹿町や朝来町より多いものの、南但各町において狭山裁判の支援のための集会に参加した支部員に対し費用弁償的に一定の範囲内の補助をしたことは部落解放のための人権意識高揚のための地方公共団体の施策として正当なものであり、よつて同対法六条に該当する支出であり、地方自治法二三二条の二の補助金支出として適法である。
(2) 支出の手続
ア 原告らは本件支出の大半は、当初予算の定めがなく、期中の補正予算によるものであるが、現実の支出は、補正予算に計上議決されるまでになされており、予算に基づかない支出で違法であり、また、長の専決処分として支出しうる要件もないと主張する。しかし、本件支出は町民協に対し支出した一八九万一三九五円と一七〇万〇五八八円は専決処分であるものの、その他はいずれも議会の予算議決に基づく支出である。
本件支出は当初予算に計上議決されていなかつたものが多くを占めるが、当初予算に計上議決されていない分についても補正予算に計上し、補正予算として計上することの必要性すべての事情を議会に明らかにしたうえで予算が議決されているのである。したがつて予算に基づいてなされた支出であり、手続上違法性はない。また一部については仮払をなし、その後補正予算議決後に支出負担行為・支出決定書を作成しているものがあるが、これも補正予算として議決されたものであるから公金の支出としては違法性はない。
なお、本件専決処分については、地方自治法一七九条一項に定める「普通地方公共団体の長において議会を招集する暇がないと認めるとき」に該当するものである。すなわちAの八鹿町長としての任期及び議会の議員の任期が昭和五〇年二月一九日であり、同月九日告示、同月一五日投票日と定まつていた。Aは右のような状況のもとで、すべての議員が開会までに参集する時間的余裕をおいて、議会招集の告示をなすことが不可能であると判断したため、同月六日専決処分をなしたものであり、この専決処分は何ら違法なものではない。
イ ところで、地方公共団体の公金の支出については支出負担行為に基づいて行なわれなければならず、予算の裏付けのない支出負担行為は、原則として無効であるとされている。しかし、これに基づく公金支出までに補正予算が議決されれば、その瑕疵は治癒されるとされている(水戸地判昭四八年八月二三日行集二四巻八・九号八二八頁、東京高判昭五二年八月九日行集二八巻八号八二三頁)。さらに公金を支出する時点では補正予算が議決されていなくても、支出後に補正予算が議決されれば瑕疵は治癒されると解されている。したがつて本件支出は手続上は違法性を有しないものである。
(四) 故意・過失
(1) Aには本件支出が公金の違法支出であるとの認識はなく、また違法であることを認識しなかつたことについても過失はない。
繰り返し述べているように、長年に亘る差別に対しこれを解消することが国や地方公共団体の責務であることが同対法により明らかにされ、特に南但地域においては昭和四九年一月のB差別文章事件が発生し、その後続々と差別事象が明るみに出されたのである。このような状況の下で、兵庫県においても各市町村に対し、同対法の時限立法の期限後半を迎え、積極的に完全解放に取り組むよう強力な指導をなし、①住民のニーズを吸収して施策すること②差別事象をとらえて解消すること(差別の実態に学べ)③経費負担については運動団体の要求は緊急妥当性を検討して解放につながるものには援助すること公共事業費及び個人といえども支部を通じてすること(窓口一本化)支部活動費たとえば運動団体の運営の事務局費、需要費、会議費等を負担しろ広報活動費たとえば解放運動のための自動車の燃料費、修繕費等を負担しろといつた内容の指導をしたのである。Aら南但各町の首長、議会、議長らは、南民協において南但地域において現に発生した差別事象に対し再三再四協議を重ね、前記の兵庫県の指導内容をも検討した結果、南民協加盟の一〇町が行政の解放への責務として、一定の範囲内の経費援助を解同支部になすことを決定し、更に各町においても議会を開催し、その必要性等あらゆる事情を説明し補正予算の議決を得、その議決にしたがつて支出をなしたのである。
原告らは、Aもその後運動団体と連帯、共闘することは誤りであつたことを認めている旨主張している。しかし、右は八鹿高校事件が発生してから一年以上も経過した昭和五一年四月になつて兵庫県が各市長町長に対し、従前の方針に問題があつたとして、解放行政の変更を指導したということがあつたため、Aがこの点を認めたにすぎないのである。このことは兵庫県自体及び県下各市町村に対する県の指導する方針が、前述のように運動団体と連帯し、窓口を一本化し、経費援助をなすとするものであつたことを如実に示しているのである。
差別が長年に亘り、かつ根深いものであり、また地域によつても差別の実態等が異なるといつた極めて困難な問題であるところから、差別解消のための行政の方針施策も立てにくい状況にあり、手さぐりで進めて行かなければならないものであつた。このような理由から兵庫県においても昭和五一年四月に至り従前の方針を変更したのであつて、昭和四九年当時としては南但各町の施策は誤つていたものではない。また、Aとしても、右のような事情のもとにあつては公金を支出する時点で違法な支出であると予見することは全く不可能である。
(2) また、本件各支出に際しては、議会に補正予算を計上し議会の議決を得ているものであるが、そのことのみによつて本件支出が正当であり、住民訴訟の対象にはならないと断言しえないまでも、当時南但地域における各種事件については議会も十分承知していたことであり、そのような議会において、本件支出をなすについての補正予算の議決が得られ、収入役も適法な支出として支出し、また決算承認の議決も得られているということは、収入役や議会も本件支出が適法なものと判断していたことを示すものである。したがつて、Aが本件支出をさせるについても、その時点では本件支出が違法であると認識することは到底不可能なことであり、予見可能性はないことが明白である。
(3) 地方財政法四条は「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最少の限度をこえて、これを支出してはならない。」と規定する。Aは、この点も十分認識し、南民協への補助金や解同支部に対する補助金にしても要求内容を検討し、また一〇町の町長や議長による協議も重ね、必要最少限におさえているのであつて、右地方財政法四条にも反していないのである。もつとも、これらの支出が必要且つ最少限のものであるとしても、財政規模の小さい町にとつて健全な財政運用に支障が生じることは当然予測できたため、各町は共同で兵庫県に対し、強力に要望し、県からは特別交付金で補填する旨の約束を取りつけ、現に四九年度の特別交付税が本件特殊事情を理由としてかなり増額支給されているのである。
また本件各支出が仮に違法支出であつたとしても、その認識がなくまた過失もないことは次の事実からも明らかであると言わざるを得ない。すなわち、本件支出が違法であると主張して首長となつた八鹿町細川喜一郎や養父町朝倉宣征も南民協の特別負担金を支出しているのである。
4 地方交付税について
原告らは地方交付税は地方自治体の財政を総体として補填するために交付されるものであり、特定の財政支出を補填するものではないと主張する。
しかし地方交付税は、地方公共団体間の財政力の不均衡を国が是正し、適正な行政水準を維持することを目的とする地方財政調整制度である。地方交付税法の規定によつても明らかなように特別交付税は普通交付税を補完するものとして、普通交付税の算定においては捕捉し得ない特別の財政需要があること、普通交付税の算定期日(毎年四月一日)後に生じた災害などの財政需要があることなど特別の事情を考慮して交付されるものであり(同法一五条)、その算定にあたつては市町村長から特別交付税の額の算定に用いる資料その他必要な資料を都道府県知事に提出し、それらの資料の基礎となる事項を記載した台帳をそなえることとされ、都道府県知事は、右市町村長から提出された資料を審査し、意見をつけて自治大臣に送付するとされているのである(同法五条)。本件支出は普通交付税の算定に捕捉し得ない特別の財政需要があるが、南但一〇町が共同して兵庫県に強く要望したところ、兵庫県は、特別交付税等により町の財政支出をカバーするとの約束がなされていたものである。このようなことから、各町は特別交付税の要求額及びその資料として、本件支出を特別事情として兵庫県に提出し、兵庫県とのヒヤリングの結果、兵庫県知事から自治大臣に意見を付して送付されたのである。したがつて、特別交付税は、特定の財政需要に対し特定して交付されるものでないとしても、特別の財政需要があつたことを要件として交付されるものであるから、結果的には特定支出に対し補填されたと言うべきである。よつて原告らの主張は誤りである。
六 原告らの反論
1 被告らの主張1(同和対策への取組み)に対する反論
(一) 被告らは、ここでは要するに、解同という一民間運動団体に対する直接の、或いは、南民協、町民協、町同協を通じての各種活動費(資金)援助が、同和対策審議会(現地域改善対策協議会)答申や同和対策特別措置法の趣旨に基づく適法な支出だと主張し、また当時は、兵庫県当局自らも解同との同和対策における「窓口一本化」政策により、運動団体の経費負担、特に支部活動費や広報活動費などへの資金援助を県下の各自治体に指導していたのであり、県がこれらの誤りを反省したのは、本件支出後のことであるから、当時自治体の長であつたAに違法支出の認識はなかつたというのである。
(二) しかしながら、被告らの右のような主張は、同対審答申や同対法の趣旨、目的に明白に反する暴論である。
(1) 即ち、同対審答申では、「第三部、同和対策の具体案」の項の冒頭部分において「同和行政は、基本的に国の責任において当然行うべき行政であつて」「同和対策は、(行政自らが行うべき)生活環境の改善、社会福祉の充実、産業職業の安定、教育文化の向上及び基本的人権の擁護等を内容とする総合対策でなければならない」としたうえで、その第一の留意点として、「①社会的、経済的、文化的に同和地区の生活水準の向上をはかり、一般地区との格差をなくすことが、必要である。」と強調している。
つまり、行政の行う同和対策は、行政自身の主体性と責任において、同和地区における生活環境の改善、生活水準の向上により一般地区との格差をなくすことに主眼がおかれているのであつて、同和地区内の民間運動団体に同和対策を依存したり、その育成、援助をはかるなどということを目的としてはいない。それどころか、本件で特に問題とされる教育の分野では、「四 教育問題に関する対策」の項において「憲法と教育基本法の精神にのつとり基本的人権尊重の教育が全国的に正しく行われるべきであり、」としたうえで、「同和教育を進めるに当たつては、『教育の中立性』が守られるべきことはいうまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であるといつたような考え方はさけなければならない。」として、当初から行政の運動への依存、運動との癒着、混同を厳しく戒めていた。
(2) また、右答申を受けた同対法においても、「国及び地方公共団体の責務」(同法四条)において、行政の主体性と責任において同和対策事業を進めることを義務づけるとともに、「同和対策事業の目標」は、「対象地域における生活環境の改善、社会福祉の増進、産業の振興、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化等をはかることによつて、対象地域の住民の社会的地位の向上を不当にはばむ諸要因を解消することにある」(同法五条)としている。
なお同じ趣旨は、「同和対策長期計画」の「基本方針」の項でも明言されている。
いずれにしてもこれらの資料の中には、同和対策として解同の運動行為そのものへの経費援助を容認する記載は全くなく、同対審答申も同対法もそのようなことを全く予定していなかつたことは明白である。
(三)(1) 兵庫県当局の問題についていえば、被告ら主張のように、昭和四八年五月の解同県連結成後、県当局が「解同県連と連帯して同和行政を推進する」との立場から、同和施策の解同への「窓口一本化」を強行して、部落解放運動に介入し、自らに都合のいい一部勢力(解同)に不当な肩入れを行い、多くの部落住民に対する思想、信条、団体加入の有無による差別政策を行つてきたことは間違いないが、県当局自らが解同の「支部活動費」(事務局費、需要費、会議費等)や「広報活動費」、とりわけ「解放車」の「燃料費、修繕費」等の類まで「行政が経費負担せよ」との「指導」はしていない。
仮に、右のような事実が存在したとしても、兵庫県が同対審答申や同対法の趣旨にも反する違法行為を奨励していたからといつて、その他の地方公共団体の長の同種の違法行為が「免責」されるなどということはあり得ないことであり、被告らの主張はこの点において意味をなさないものである(なお、被告ら主張によつても、「解放車」の「購入費」等までは含まれてはいない。)。
(2) 兵庫県知事は、昭和五一年四月一二日付けをもつて、同和行政推進に関する通達を出しているが、これは、兵庫県当局が、八鹿高校集団暴力事件等をきつかけとして、行政と解同との癒着に対する県民の批判が高まつたこともあつて「行政が運動の立場と役割を混同し、県民の腐心をまねく事態がみられたことは極めて遺憾である」「従来、ややもすれば運動と行政が混同され、運動行為そのものに参加したり、当然行政が実施すべきものを運動に依存しすぎたり、理解のないまま運動側の一方的な主張を受け入れる等、行政が主体性を失する事態があつたことは、いなむことのできない事実である」などと同対審答申が厳に戒めていた違法、不当行為の存在を認めて、Aの本件行為のごときを非難したうえで、それらの要因の一つである解同との「窓口一本化」政策を「手直し」しようとする立場から、改めて、日本国憲法と同対審答申や同対法の本旨に戻つた同和行政を進めて行く決意を表明したものである。
したがつて、そこでの見解は、いずれも従前の同対審答申の内容や同対法の精神と何ら変わることはない。特に「運動団体に対する経費助成について」の項で、「地方公共団体が他の団体等に対し、その経費を補助する場合は、公益上必要があるものに限られており、運動行為そのものに要する経費は、当該団体が負担するものであると考えます。」と指摘している事実は、同対法の趣旨と地方自治法による「補助金」支出の要件を再確認したもので、前述の被告ら主張に反する事実であり、Aの本件支出が、県や国の同和関係予算の助成によつても填補される余地のないものであることを明確にしている。
(四) 南民協、町民協等について
これらの団体の性格、実態については、請求原因欄6に述べたおりであるが、南民協は、その設立の時期、目的からわかるように、本来必ずしも同和対策だけを目的として結成された団体ではなく、新憲法の精神を地域に徹底させて、いわゆる「村八分」や封建的因習など地域における各種差別一般を除却して(部落差別も含む。)、「町民全体の民主化」を促進することを目的とする団体であつた。それが、同対審答申、同対法の施行を受けて、同和問題などの啓蒙活動も併せてその中心的目的とされるようになつたものである。町民協も同様であるが、その設立時期から同和対策も目的の一つに加えられることになつたものである。
いずれにしても、被告ら主張のごとく、同和対策のみを唯一、無二の目的とする団体ではなかつた。
(五) 地域改善対策協議会の報告書について
同和対策審議会、同和対策協議会の後を承けた政府の「地域改善対策協議会」の基本問題検討部会が、昭和五九年六月の「今日における啓発活動のあり方について(意見具申)」と題する答申後審議を重ねた結果、昭和六一年八月五日、「基本問題検討部会報告書」を発表した。
そこでは、「同和問題の現状に対する基本認識」として、同和地区と一般地域との格差が平均的な水準としては相当程度是正され、また心理的差別の領域でもその解消が進みつつあり、その背景には、実態面の劣悪さの改善や同和教育の実施が寄与しているとしつつ、「同和地区の実態」として、地区外の人との結婚が増加しており、とりわけ三〇歳未満の若年夫婦では、全体の六割以上が一般住民とのいわゆる通婚であるという事実を明らかにしている。それにもかかわらず「同和問題解決のための基本的課題」として、「現在、同和問題は、いわばタブー視されている傾向がある」と初めて「タブー」の問題を公式に認め、「同和問題についての自由な意見交換のできる環境づくり」の必要性を強調している。そしてそれを阻害する大きな要因として「民間運動団体(解同)の確認、糾弾という激しい行動形態」をあげ、これが「同和問題に関する国民各層の批判や意見の公表を抑制してしまつている」と明言している。また行政も、「確認、糾弾等への恐れから、自由な発言や広報活動を行つていないという傾向がみられる」とし、更にマスコミのいわゆる「解同タブー」にも言及している。
このようにAの支援した解同の活動が、かえつて同和問題を基本的に解決するうえで極めて有害な作用をしているとの原告らの主張と同じ見解が、国の機関によつても公けに明らかにされ、また同じく「基本的課題」の一つとして、「行政の主体性の確立と行政運営の適正化」も強調されている。
2 被告らの主張2(差別の発生)に対する反論
(一) B差別文章事件について
被告らの主張する手紙の内容のうち、昭和四九年一月三〇日付け神戸新聞によつても間接的に認められるのは、被告らの主張2(一)(1)イ及びウにすぎず、同ア及びエないしクの各項目は、全く根拠がない。このようにこの手紙の内容は、本人の真意から離れて糾弾闘争の経過の中で勝手にふくらまされていつた傾向がみられ、解同の一部幹部が原本を独占的に管理していたことからすると、その激しい確認糾弾闘争を正当化するために、事実を歪曲、誇張していつた疑いが濃いとみられる。
また右「差別文章事件直後の差別事件」としてあげられた三町の自殺事件は、いずれも事実に反し、あるいは全く事実無根のものである。
(1) 生野町の女子高校生死亡事件は、部落差別とは関わりのない出来事であり、死亡原因も事故死か自殺か、解同内部においてさえ確認できなかつたのであり、警察の発表では、「疲労による凍死」とされ、「事故死」として扱われている。
(2) 大屋町における「行商をめぐる差別発言に基因しての自殺」というのは、巧みな言い回しではあるが、差別発言をされた者が自殺したというのではない。「差別発言があつた」と一方的に追放され、解同の確認糾弾の対象とされた行商の家族が、その恐怖から逃れるために自殺したというものである。
当時南但では「差別されて自殺までした人はまだいないが、差別したと確認、糾弾されて自殺に追い込まれた人がいる」といわれたように、当時の解同による確認、糾弾が如何に過酷で人権無視の乱暴なものであつたかを物語つている。
(3) 関宮町においては、昭和四九年当時、部落差別に基因するといわれる自殺など一件もなかつたのであり、解同さえこのような主張は一度もしていない。
(二) 八鹿高校事件について
右事件については、以下の二点につき補足的に反論する。
一つは、当時の「解放研」というのは当時の解同中央本部の組織方針に基づいて、解同青年部を中心に職場や学園に次々と組織されていつた解同の下部組織であり、学校教育における課外活動としてのクラブ(部)や同好会とは明らかに性格の異なる組織であり、その実際も解同の指導を受け、解同員を顧問にして「教師糾弾」などを主たる活動とするものであつた。
二つは、解放研の「ハンスト作戦」は、当初から解同(共闘会議)の「闘争方針」の一環として組み込まれており、その開始も終了も事件の主犯丸尾良昭共闘会議議長の指示によつてなされていた。
(三) 「各事件についての原告らの宣伝」という点について
まず、原告ら住民が、一連の事件につき告訴をしたとの被告らの主張は誤りである。また、一連の事件につき、神戸地方裁判所は昭和五八年一二月一四日にほぼ原告ら主張に沿う事実を犯罪事実と認定して有罪の宣告をしており、さらに右事実は多数の八鹿高校生徒及び町民により目撃されていることから、原告らの独断と偏見に基づいているものでないことは明らかである。
3 被告らの主張3(本件支出の適法性)に対する反論
(一) 各事件の意義について
本件各事件の本質が、被告ら主張の名分とはおおよそかけはなれた相容れない内容のものであることは既に詳述してきたところである。被告らのこれに対する反論は、文章の体裁としては行政機関自ら作成した形式をとりながら、その実は解同幹部が作成した事実に基づかない主張をそのまま引用した文章に基づいているにすぎない。そして、右主張をもとにして、本件支出が同対法に適合する支出であると強弁することは、とりもなおさず本件支出が真に解同のいうがままの支出であつたことを物語つている。
(二) 南民協への支出七〇三万三二一五円について
(1) 被告らは右金額がすべて回収済みであると主張するが、否認する。
被告らは右金額を、南民協、町一般会計、町民協及び解同D支部がそれぞれ負担したため回収したと称するのであるが、要はAが町財政の中から立替金名下に支出した七〇三万三二一五円を右各団体会計別に他の名目のもとに割り振つて整理したにすぎない。
内容的には、集団暴力事件たる八鹿高校闘争事件に町の公金が支出された事実に何ら変わりがなく、かつ原告らは、その支出が南民協や町民協などのダミー(トンネル機関)を通じてなされようと、あるいは直接町の一般会計からなされようと、その使途・目的に照らして違法だと主張しているのであるから、仮に右金額が被告ら主張の形態で支出されたものとしても、結局その金額が町財政から出たものである以上、結論において何ら違法性を失うべきものではない。
以下各別に説明を加える。
(2) 南民協会計
七〇三万三二一五円のうち、三九六万〇七六五円は南民協特別会計負担金六二七万一八〇〇円と相殺した(から回収返還された。)、というのが被告らの主張である。
被告ら主張を図式化すれば
となる。
これを見ても明らかなように、町財政の支出形態として何の名分もない「立替金」としての支出を「南民協特別会計負担金」と言い換えたにすぎない。そして、「南民協特別会計」とはとりもなおさず八鹿高校闘争事件の経費に関する特別会計なのである。三九六万〇七六五円の立替金を南民協特別会計負担金と相殺したということは、同金額を南民協特別会計負担金として弁済したということなのである。被告らは、立替金が回収されたというのであるが、回収の前提として、立替金と同額の金員を南民協宛に(しかも八鹿高校事件特別経費として)支払つている。「相殺」とは、「弁済」の一種であることは言うまでもない。その意味で、被告らは右金額を南民協特別会計を通じて支出したことを自白しているに過ぎない。したがつて、右金額は「回収」されたのでも何でもなく、支出名目を変更したという主張に帰する。そして原告らは当初から、その支出が南民協会計を通してなされたものであると否とを問わず、その使途・目的に実質に照らして違法支出と言わざるをえないと主張しているのである。
(3) 一般会計、備品購入費
三〇七万二四五〇円のうち、一一五万〇九三五円は一般会計で支出した、と被告らは主張する。仮にその通りだとして、一般会計での支出が、それぞれが負担したため回収できたことになるのであろうか。一般会計で支出したとの主張は、町費を支出したことの自白ではあつても、「回収」ではあり得ない。被告らの論理は、その論理構造において破綻を示している。
(4) 町民協負担金
三〇七万二四五〇円のうち、一八九万一三九五円は町民協負担金として支払つたから回収できた、というのが被告ら主張である。
同金額を「町民協負担金」との名目に変更したとしても、これによつて既に支出された町の公金が回収できたわけでもなく、また仮に「立替金」としては回収されたことになつたとしても、その前に同金額を同じ使途・目的のために町財政から支出したものであるから、結果において何らの変わりがない。原告らは、本件支出が南民協などのダミーを通じてなされた体裁を取つていることを前提に、その違法支出たることを主張しているのである。
(5) 解同支部返還金
解同丁支部から三万〇一二〇円が返還されたとの主張は争う。
何れにせよ同支部は町からの補助金以外独自の財源を有しないのであるから、被告ら主張が認められても、その結論において何ら変わりはない。但し、解同支部、町民協、南民協へのそれぞれの支出のうち、同一のものを重複して記載しているものがあるとすれば、それは町の支出としては一個のものであるから、その限りにおいては損害金額が異なつてくることは認めるが、そのような記載をしたものはない。
(三) 町議会の審査、議決を得て執行したとの主張について
本件支出の大部分は、当初予算に計上されておらず、かつ補正予算もまだ成立しない時点で、A個人の責任と判断において事実上支出されてしまつたものである。前項「立替金」名目での支出の存在、法の認めない形での借入金による支払いがなされていることは、これを裏付ける。昭和五〇年二月六日付けの専決処分にしても、既に支出してしまつたものを追認せんがためになしたものであつて、そうでなければ急いで同日に専決処分をする必要はなく、一、二か月位後になつても特段の支障は認められない。昭和五〇年二月一九日の補正予算と支出負担行為が帳簿上多く見受けられるが、これは議員の任期が切れる最終日であり、その日に泥縄式に議決をしてしまつたことを物語つている。何れの点より見ても“慎重審議”とは程遠い状況で、既になした事実上の支出、事実上の(違法な)借入れを表面的に糊塗するために、専決処分や補正予算、支出負担行為などがなされたのである。
(四) 予算外支出と補正予算の成立
被告らは支出後に予算が成立すれば瑕疵は治癒されると言うが、治癒するのは予算に基づかない支出であるという点にのみ限るのであり、支出目的・内容が違法であるという実体的瑕疵は勿論のこと、それ以外の、手続的瑕疵が治癒されるものではない。
(五) Aの故意、過失について
被告らは「Aが本件支出をする当時において、違法な支出であるという認識もなく、また違法な支出であると予見することは全く不可能であつた」との弁解をなしている。
しかし、A自身が本件支出をすることについて、町議会での答弁に際して、「法的根拠がないから、町長は困つているのだ。」と開き直つており、その違法性について確定的な認識を有していたことを争う余地はない(請求原因10参照)。
被告らは議決が得られたことをもつて、議会も本件支出が適法なものであると判断していたことを示す、というのであるが、当時の議会の状況は、違法な支出を認めるわけにはいかないとの有力な議論もあつたが、Aが本件支出を既になしてしまつているという既成事実の上に立つて、結局は“ことなかれ”の議決に至つただけである。このような「議決」を根拠に司法権の担い手である裁判所の判断を左右することは出来ない相談である。
当時、同じ立場に置かれた町長のうち、大屋町の岡村町長や、養父町の朝倉町長が、断固支出を拒否したが、それ以外にも、養父町のQ元町長も、同人が被告となつている同町の住民訴訟(当庁昭和五一年(行ウ)第五号)における昭和五七年一一月一〇日実施の当裁判所における本人尋問で、「(八鹿高校事件関係の費用について)違法とか、以前の問題として、そういうことにだすべきじやないと。」明快に答弁し、また右事件において、当時、町の収入役を務めていた宮本昭雄証人も、適法な支出とは思つていなかつた旨証言している。
結局のところ、本件支出がなされた当時においても、このような目的で支出をすることについては問題があるという認識は一般的に存在していたのであり、Aとて、その例外ではありえなかつた。被告らの言うように、「違法性を予見することが不可能だつた」とするためには、当時の社会通念ないしは、地方自治体の町の誰もが、本件支出の適法性を確信し、かつその確信をもつことについて何の落度もなかつた、という事実が立証されていなければならないが、そのような事実はない。
第三 証拠<省略>
理由
第一争いのない事実
請求原因1の事実、同4のうちいわゆる狭山裁判の内容がおおむね原告ら主張のとおりであること、同6(一)のうち南民協の目的及び組織が原告ら主張のとおりであること、同6(二)のうち各町において町民協が南民協と同様の趣旨で設立されたこと、同7の支出のうち、別表の「朝来闘争」及び「狭山闘争」欄の各支出、同表「八鹿高校闘争」欄のうち町民協・南民協(ただしその趣旨は争う。)への支出があつたこと、同11の事実はいずれも当事者間において争いがない。
第二被告らの本案前の主張について
一被告らは、本件支出に際しAの発した支出命令は議会の議決に基づく行為であるから地方自治法二四二条の二に基づく住民訴訟の対象にならない旨主張する。
しかしながら、地方公共団体の長その他の職員の公金の支出等は、一方において議会の議決に基づくことを要するとともに、他方において法令の規定に従わなければならないのは勿論であるから、議会の議決があつたからといつて、法令上違法な支出が適法な支出となる理由はない。なるほど、法令上違法な支出があつた場合に地方自治法五章に定める議会の解散請求により解決する方法も考えうるが、同法が二四二条、二四二条の二を同五章と別に規定した趣旨は、右のような直接請求では足らず、個々の住民に、違法支出等の制限、禁止を求める手段を与え、もつて公金の支出、公財産の管理等を適正たらしめるものと解するのが相当である。このように解するならば、監査委員は、議会の議決があつた場合にも、長に対し、その執行につき妥当な措置を請求することができないわけではなく、ことに訴訟において、議会の議決に基づくものでも違法な支出であるとして、地方公共団体に代位して長に対し損害賠償を請求することができるものとしなければならない(最高裁判所昭和三七年三月七日大法廷判決・民集一六巻三号四四五頁、同昭和三九年七月一四日第三小法廷判決・民集一八巻六号一一三三頁参照)。
したがつて、被告らの右主張は、失当である。
二次に、被告らは、地方自治法二四二条の二第一項四号にいう「職員」には地方公共団体の長は含まれないなどとして、Aの相続人である被告らに対する本件訴えは不適法である旨主張する。
そこで検討するに、地方自治法二四二条の二第一項四号によるいわゆる代位請求訴訟は、同法二四二条一項所定の地方公共団体の執行機関又は職員による同項所定の一定の財務会計上の違法な行為又は怠る事実によつて地方公共団体が被り、又は被るおそれのある損害の回復又は予防を目的とするものであり、地方公共団体が、その執行機関又は職員による右違法な行為又は怠る事実により被り、又は被るおそれのある損害の回復又は予防のため、当該職員又は当該違法な行為若しくは怠る事実に係る相手方に対し、実体法上同法二四二条の二第一項四号所定の請求権を有するにもかかわらず、これを積極的に行使しようとしない場合に、住民が地方公共団体に代位して右請求権に基づき提起するものである。このような代位請求訴訟の目的・構造に鑑みれば、右訴訟の被告適格を有する者は、右訴訟の原告により訴訟の目的である地方公共団体が有する実体法上の請求権を履行する義務あると主張されている者(つまり、地方公共団体が訴えを提起すればその被告とされる者)であると解するのが相当である(最高裁判所昭和五〇年五月二七日第三小法廷判決・裁判集民事一一五号一五頁、同昭和五三年六月二三日第三小法廷判決・裁判集民事一二四号一四五頁参照)。
本件において、原告らが、兵庫県養父郡八鹿町に代位して行使しようとする請求権は、A自身の不法行為により同町に加えた損害に対し同町が有する損害賠償請求権であるから、本訴において被告適格をもつ者は、原告らにより右損害を賠償する義務を負うと主張されているAの相続人である被告らであることは明らかである。
この点、被告らは、地方自治法が「執行機関」と「職員」の区別をし、同法二四二条の二第一項四号では「職員」とのみ規定され「執行機関」である町長は含まれないと主張するが、右代位請求訴訟の前記目的・構造に鑑みれば、普通地方公共団体の長が実体法上の規定に基づき当該地方公共団体に対し賠償責任を負う場合を除外したものとは解されず、被告らの右主張は失当である。
また、被告らは、仮に、右四号にいう「職員」に普通地方公共団体の長が含まれるとしても、同号に該当するためには、当該長の行為が個人的な私利・私欲を図るための行為であつて「執行機関」の行為とは観念され得ないような場合である旨主張するが、そのように解すべき根拠はない。
よつて、被告らの右主張は失当である。
第三本案について
一本件の背景事情等
<証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
1 兵庫県南但馬地方(朝来郡、養父郡)には二二のいわゆる被差別部落が存在し、従来から劣悪な生活環境、結婚、就職差別等に苦しんできたが、昭和四八年五月には部落解放兵庫県連が部落解放同盟に加盟し解放同盟兵庫県連(解同県連)として発足し、同年七月には部落解放同盟南但馬支部連絡協議会(以下「南但支連協」という。)が結成され、それに伴い、同地方の被差別部落に解同県連の支部が設置され、さらに同年一〇月には南但支連協内の組織として青年部(実質は朝来町甲支部青年部が中心)が発足し、差別に対する解放運動の組織が整備され、青年層を中心に解放運動が活発になつた。
2 右青年部発足のころから、右解放運動は活発となり、右青年部が中心となり自らの被差別体験を行政当局の前に明らかにし、それに対する働きかけを通して関係者の意識改革を迫る運動(行政点検運動)を展開する一方、南但馬地方において差別事象が頻繁に生じているにもかかわらずそれが隠蔽されたままになつているとして精力的にその摘発に取り組んでいた。
このような折の昭和四九年一月に、右青年部は、兵庫県の中堅幹部職員Bが同和地区の女子高校生と交際中の長男にあてた手紙数通を入手し、そこに書かれていた内容が部落差別にあたるとして組織を挙げて糾弾活動に乗り出すことに決定し、同月二八日にB差別文書事件糾弾闘争本部を設置し、C(解放同盟甲支部所属、のち同支部支部長)をその闘争委員長に選ぶなどした。
そして、このころから右青年部が中心となり、各部落の学習会、南但各町の行政関係者に対する確認会・糾弾会を盛んに行うようになり、さらには行政の同和事業に関する今一つの重要な柱は同和教育にあるとして、南但地方の小中高等学校の学校関係者に対しても、確認会・糾弾会を行うようになり、その中には長時間にわたつて行われる間に参加教師が体調を悪化させ救急車で病院に運ばれるなどの事例があつた。
これら一連の活動と歩を一にして、南但地方の中学校、高等学校においては、主に被差別部落出身の生徒を中心にして学校当局に対し解放研設置の要求が出されるようになり、事実、朝来中学校、和田山中学校、和田山商業高等学校等において解放研が設置され、解放研生徒が各学校に対する糾弾活動の一翼を担つた。
3 他方、南但支連協青年部の右活動が盛んになるにつれ、同活動を批判する声が高まり、たとえば、当時の兵庫県教職員組合朝来支部支部長であつたF、部落解放運動の統一と刷新をはかる癸有志連合(昭和四九年八月に正式に発足)の会長W等はその代表であつた。
右Fは、解放同盟の方針に批判的な立場をとる人達を招いて講演会を開くなどの活動をする一方、教育関係者等に対する前記確認会等においては、具体的差別があるか疑わしい事象をとらえてこれを差別であると認めさせるなど、解放同盟において確認会等の名目の下に各学校の同和教育内容、教育方針、教師の信条等に介入・点検するものであり、しかもその確認会等は長時間にわたり教師の人格の尊厳を侵す野蛮な方法、態様により行われているとして強く反発していた。
さらに、Fは、昭和四九年六月ころから同人と志を同じくする者として前記Wと急速に接近し連絡を密にするようになり、同人らのほか高等学校教職員組合但馬支部支部長片山正敏ら八鹿高校教諭、日本共産党所属の町会議員の支援の下に、昭和四九年七月から八月にかけて、生野小学校、和田山中学校、朝来中学校等において行われた確認会に関する情報を収集したうえ右確認会を批判するビラを作成し兵教組朝来支部組合員や朝来郡内の住民などに大量に配布した。
右のように、解放同盟に反対する活動のほか、教育現場においても前記解放研設置要求に対し教諭らがその設置を拒否するなどして紛争が生じた(後述の八鹿高校の紛争の直接的な起因である。)が、その設置反対の理由は、要するに、解放研は解放同盟の指導の下にあるから校内に解放研の設置を認めることは学校内に解放同盟の勢力の介入を許すことになる、というものである。
4 これらの動きに対し、Cを中心とする解放同盟は、Fの右行動とりわけ確認会等を批判するビラを配布するのは悪質な差別キャンペーンであり、解放運動を妨害しひいては被差別部落出身者を苦しめるものであるとし、Fや兵教組朝来支部に抗議する一方、ビラ配布を阻止しあるいは新聞折込みの中止を迫るなど組織を挙げてこれに対応した。
右対立を象徴する事件がいわゆる壱事件である。すなわち、Fは、兵教組朝来支部有志等を動員して昭和四九年九月八日夕刻から朝来中学校における確認会を批判した内容等のビラを配布していたところ、Cを中心とする部落解放同盟同盟員らが、右Fらの動静を監視し、その行動を阻止した。翌九日に右Fらが帰宅しようとしたところ、右同盟員らはCの指揮のもとに朝来町の通称壱三叉路付近においてFら一〇名を多数で取り囲み、約一〇時間にわたり「差別者、糾弾する」「一日で済むと思つたら大間違いだ」などと怒号するなどし右Fらを不法に監禁し、そのため右Cらは昭和五八年一二月一四日に神戸地方裁判所において監禁罪で有罪とされている。
その後、両者の対立はさらに激化し、後述のとおり解放同盟がF宅を多数の同盟員らで取り囲み右Fらを監禁するF宅包囲監禁事件(F糾弾事件、朝来闘争などともいう。)に発展した。解放同盟が、F宅を包囲している間、右Fらを支援し、右糾弾の不法、不当であることを訴えるため、多数の民青同盟員、学生、労働者などが南但に集結し、橋本宅付近で解放同盟員と対峙する一方、国鉄播但線生野駅、新井駅、青倉駅などで付近住民や通行人に右糾弾を非難するビラを配布したため、これを聞きつけた解放同盟員が右各駅にかけつけビラの配布を阻止しあるいは抗議する過程で、解放同盟員らによる暴行、傷害、監禁等の事件が発生した。いわゆる生野駅・南真弓公民館事件(解放同盟員らが、昭和四九年一〇月二五日国鉄播但線生野駅ホームにおいて、スクラムを組んで座り込んでいたF支援者二〇名に対し髪の毛をひつぱり、腕を殴打するなどの暴行を加え、さらに近くの南真弓公民館に連れ込み、約四時間三〇分にわたり、ビラを配布したのは不都合であるとして右支援者らを不法に監禁し、その際同人らの頭部・顔面・腰部等に約二週間から五日を要する傷害を与えた事件)、いわゆる新井駅事件(解放同盟員らが、昭和四九年一〇月二六日国鉄播但線新井駅付近において、F支援者二名に対し、暴行を加え、加療約一週間ないし約三週間を要する傷害を負わせた事件)及びいわゆる青倉駅前事件(解放同盟員らが、昭和四九年一〇月二六日国鉄播但線青倉駅前付近において、F支援者四名に対し、暴行を加え、加療約三週間ないし約一週間を要する傷害を負わせた事件)がこれであり、いずれも加害者は前記神戸地方裁判所により有罪の宣告を受けている。また、解放同盟員は、昭和四九年一〇月二七日、当時日本共産党養父支部長であつた吉井誠一が「差別キャンペーン」を行つているとして同人の自宅前において同人に抗議した際、顔面等を殴打する暴行を加え、引き続き同所付近の大藪公会堂において多数の解放同盟員らによる糾弾の際前記吉井誠一及び同人の父吉井誠に対し、足蹴りなどによる暴行を加えたため、右加害者は前記神戸地方裁判所により有罪の宣告を受けている(いわゆる大藪公会堂事件)。
右のように前記神戸地方裁判所により有罪の宣告を受けた事件のほか、解放同盟員らによる活動に対し多数の告訴ないし告発がなされており、そのうちには例えば、昭和四九年一〇月二六日に兵庫県朝来郡和田山町の和田山町議会議員佐藤昌之(日本共産党所属)方に解放同盟員らが押しかけ、同所付近にいたN等に暴行を加え、その際Nの両眼が失明するにいたつた事件等が含まれている。
その後も、両者の対立はさらに激化し、後述のようにその頂点ともいえる八鹿高校事件にまで発展した。
5 このように南但地方における解放同盟とこれに反対する勢力の対立の背後には、部落解放という目的の点では一致しながらその運動方針の点で意見を異にする部落解放同盟と部落解放同盟正常化連絡協議会(正常化連。のち全国部落解放運動連合会=全解連に改組)の対立、ひいてはいわゆる「矢田教育差別事件」(昭和四四年に発生)を契機として決定的となつた部落解放同盟と日本共産党との対立がある。
二事件の発生及びその概要
1 F宅包囲監禁事件(F糾弾事件、朝来闘争)
<証拠>を総合すると、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(一) 解放同盟甲支部(支部長C)青年部有志の間から、Fの前記ビラ配布等の行為は部落解放運動を妨害し、分裂させる行為であるから同人を糾弾すべきであるとの話が持ち出され、昭和四九年一〇月初めころ右Cがこれを了承したことから右甲支部青年部員らの間でF糾弾闘争を展開することが決定された。
(二) 右甲支部青年部は、右糾弾の綱領として、「①特定思想をもつて教育現場にあたり学校に混乱を持ち込んでいる。よつて彼、Fを糾弾する。②解放同盟の規約、綱領の精神を誹謗し、国民的立場をわきまえないで、日本共産党差別者集団の思想をもつて、解放運動を妨害している。よつて彼、Fを糾弾する。」と決定し、糾弾闘争の具体的内容については、右甲支部青年部が中心となつて、闘争期間の昭和四九年一〇月二〇日から同月二六日までの一週間とし、その間毎日午後七時から同八時まで少なくとも約五〇名の解放同盟員らを動員して、兵庫県朝来郡朝来町所在のF宅前をデモ行進し、いわゆる解放車のマイクを用いて道路から糾弾することなどを決定した(なお、右道路使用許可については、同月一九日に兵庫県和田山警察署長が許可をしている。)。
(三) 同月一五日ころ及び一八日ころの二回にわたり、右A支部主催の学習会が甲福祉会館で行われ、右青年部員らはF糾弾闘争への参加及び協力を求めた(なお、少なくとも右一八日の学習会には、朝来町役場の関係者十二、三人が出席し、同町役場の住民課長が司会をつとめ、F糾弾闘争への協力を求めている。)。
他方、右青年部員らは、同月一六日ころからF糾弾計画を記載したビラ・ポスターを朝来町内に配布ないし貼付したほか、同月一七日には右青年部員及び朝来中学校教頭がF宅を訪れ、同人を糾弾する旨通告するなどした。
(四) 解放同盟甲支部青年部員らは、同月二〇日夕方ころから、F宅東隣の神橋敏雄方及び田を隔てて東方約数十メートルの地点にある由利若神社西側空地に甲支部のキャンプ用テントを設置し、さらに右テント付近及び橋本宅付近の電柱に屋外作業灯(投光器)を設置した。
その後、同日午後六時過ぎには、南但支連協各支部の同盟員、朝来町職員等約三五〇人が集り、午後八時ころまでF宅前で「F出て来い。F糾弾。」等のシュプレヒコール、ジグザグデモなどを繰り返した。
(五) 翌二一日午前には、前記テント設置場所付近にさらに大型テント等を設置し、テント前には「F糾弾闘争本部」の看板を掲げた。その後、同日午後三時半ころには、朝来中学校の生徒多数がF宅付近に集り、Cの音頭のもと一時間程シュプレヒコールなどをし(右中学生らは、F糾弾闘争が終るまで、毎日F宅付近に集り糾弾闘争に参加した。)、午後七時前ころには約三五〇人の同盟員等が集り、午後八時ころまで、解放歌斉唱、シュプレヒコール等を繰り返し、Cの指揮でデモ行進を行い、その際解放同盟員はいわゆる解放車(マイクロバス)のマイクでF宅に向い「お前が出て来るまで一週間だろうが、一か月だろうが、一年だろうがわしらは毎日来るぞ。」「お前を倒すまで、お前がぶつ倒れるまで、わしらは糾弾して、糾弾して、糾弾しまくるぞ。」「お前を殺して部落が解放されるんだ。」などと演説したりした。
さらに、夜は、解放同盟員のうち何人かが前記テントで泊り込み、F宅を投光器で照らし、あるいはF宅内に人影を認めると大型懐中電灯様のものでその人影を照らすなどし、このような状況はF糾弾闘争終結に至るまで続いた。
(六) このように日を重ねるにつれ、解放同盟甲支部を中心としたF糾弾闘争は激しさを増し、翌二二日には朝から解放歌・シュプレヒコール等を録音したテープを流し、午後に入ると中学校の解放研の生徒たちが集り、前日同様の糾弾行動を行つた。
また、同日午後四時五分ころには、木下元二衆議院議員(兵庫県選出で日本共産党所属)ほか七名が、F宅を訪れ、午後五時ころ乗用車で同所を退去しようとしたところ、解放同盟員は、その行く手を妨げるようにして前記甲支部所属のマイクロバスを駐車させこれを中心にしてスクラムを組むなどして、右木下議員らの退去を阻止し、少なくとも数時間F宅に監禁するなど、その糾弾闘争はさらに激化し、そのころから解放同盟員らはF宅を一日中取り囲み、アジ演説、シュプレヒコール、デモ行進、解放歌斉唱などを繰り返し、機動隊、民青同盟員らと対峙し、絶えず野次を飛ばすようになつた(たとえば、その野次の内容は「わしらの恨みは子供ではらしてやるぞ。子供が学校へ行き出したら、そこでどんな目に会うか、その時思い知れ。」「おばば、くたばれ、お前が死んでも誰も葬式してくれる者はないぞ、庭に穴掘つて自分で死んじまえ。」というようなものであつた。)。
(七) このようにF糾弾闘争は、その激しさを増したため、Fは同月二三日神戸地方裁判所豊岡支部から解放同盟甲支部を債務者とした原告ら主張のとおりの仮処分命令(請求原因欄2(一)(2)参照)を得たが、解放同盟はF宅の包囲監禁を解かなかつた。
他方、多数の民青同盟員らが、Fを支援するため南但地方に集結し、同日夜にはF宅近くでその約五〇〇名が多数の解放同盟員らと対峙し、互にシュプレヒコールを繰り返すなど険悪な状況をかもしだす場面もあつた。
(八) その後、同月二四日から同月二六日の午前中までの間、解放同盟甲支部が中心となり、右に述べたのと同様の激しさをもつて、F糾弾闘争を展開した。
なお、朝来町民に配布されたビラには、右F糾弾闘争に共闘している団体として、解放同盟兵庫県連合会甲支部、同南但支連協、同北但支連協、兵教組朝来支部内の朝来中ほか一一の分会、朝来町、八鹿町、養父町ほか三町の各自治労の職員組合、朝来町及び山東町の各同和教育推進協議会、朝来中学校ほか三小学校の育友会、朝来町及び生野町の各町議会、朝来町及び生野町の各婦人会、県立八鹿高校ほか六中高校の解放研等が記載されている(この点は当裁判所に職務上顕著な事実である。)。
(九) 神戸地方裁判所は、右事件につき、昭和五八年一二月一四日に、Cらが多数の解放同盟員らと共謀してFをして昭和四九年一〇月二二日午後五時三〇分ころから同月二六日午前一一時四五分ころまでの間、約九〇時間余にわたり、また木下元二ほか二名をして約四時間三〇分にわたり、それぞれF宅からの自由な出入りないし退出を著しく困難ならしめたことは、監禁罪を構成するとして有罪の宣告をしている。
2 八鹿高校事件
<証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(一) 八鹿高校における同和教育は、但馬地方の他校に先駆け早くから取り組まれており、昭和四五年ころには同和対策室が設けられ、生徒のクラブ活動としては部落問題研究会(部落研)が作られ、地道な活動が行われていた。
一方、部落解放同盟の昭和四九年度一般運動方針として、職場、学園に部落解放研究会を組織すること、この際には、①部落解放同盟の指導を受け、できる限り同盟青年部員、部落の青年を中心とし、②諸団体の「政治的利用主義」を許さず、③職場においては労働組合、学園にあつては自治組織の正しい指導を受けることが決定された。
(二) 昭和四九年二月に行われた八鹿高校卒業式においては、二名の生徒が解放研設置を訴えたのを端緒にして、同校の被差別部落出身の生徒を中心にして解放研設置を求める動きが起つた。
(三) 昭和四九年五月初めころ、被差別部落出身の生徒が、学校側に対し正式に解放研の設置申請をし、以後同年六月中旬まで学校側ないし教師らとの間で十数回にわたり話合いがもたれた。当時の同和教育室長であつた高本教諭をはじめとする同校教師たちは、概して、同校には既に同種の同好会として部落問題研究会があること、解放研は解放同盟の運動方針に基づいて作られるもので解放研を校内に設けることによりこれを足掛りにして外部の運動が校内に持ち込まれ公教育に対する介入のおそれがあるなどとして、解放研設置に消極的であつた。
(四) 八鹿高校の珍坂校長は、但馬教育事務所長の要請に基づき、同年六月六日に解放同盟南但支部に赴き丸尾良昭らと面会し、同人から解放研の設置を強く要請された。
(五) 解放同盟南但支部等は、同年六月四日ころ「部落解放に立ち上がる高校生の一泊研修会」の構想をまとめたが、同研修会においてモデル確認会の企画があることが判明したため、八鹿高校の同月一七日の職員会議では右研修会に参加しないことを決議した。これに対し、同校の小田垣教頭及び被差別部落出身の生徒数名が、同年六月二二、二三日に開催された右一泊研修会に出席した。
(六) 右研修会において、和田山商、日高、八鹿の三高校に対し、「モデル確認会」が行われ、同研修会に出席していた小田垣教頭は激しい説得を受けたうえ解放研を七月までに設置することを約束させられた。
(七) これに対し、同月二五日に開かれた八鹿高校職員会議において、八鹿高校は研修会には全員絶対に出席しないこと、小田垣教頭の右約束は撤回するよう努力することの決議をし、同校同和教育室、校長、教頭の継続研修会不参加を再確認した。
(八) その後、珍坂校長及び小田垣教頭に対し、同月三〇日の「継続研修会」に出席するようにとの職務命令が発せられたため、右両名は継続研修会に出席し、参会者から激しい説得を受けて、結局七月末までに解放研を設置することを文書で約束させられた。
(九) これ以降、右経過を踏まえ、かつ県教育委員会の指導に沿つて解放研の設置を認めようとする校長及び教頭ら同校管理職と、あくまで設置に反対しかつ前記研修会のみならず一切の確認会・糾弾会への不参加を標榜する同校一般教師らの対立が激化し、教師らの校長室座り込みにまで発展したが、同年七月三〇日に珍坂校長はついに解放研の設置を承認し、顧問に小田垣教頭をあて、同校本館二階に部室を提供し、ここに同校解放研は正式に発足することとなつた。
(一〇) 八鹿高校教師たちは、珍坂校長の右措置に対し抗議するとともに、あくまでも解放研を認めない態度を崩さなかつた。
ところで、八鹿高校育友会(PTA)は、右のような対立が深まつた同月二六日に、高校同和教育につき育友会代表者をして八鹿高校同和教育室の教師との話合いをさせ、また同年八月一三日には珍坂校長及び一般教師たちに学校教育の正常化を要請し、さらに同年九月二九日には育友会代議員会において県教育委員会に対し高校教育正常化を要請することを決定し、右育友会は同年一〇月一八日に右趣旨に基づき県教育委員会に要請した。
これに対し、県教育委員会は、一か月以内に解決するとの確約をし同委員会主事らが同月八鹿高校に来て同和教育室の教師らと話し合うなど解決のあつせんをしたものの、事態は好転しなかつた。
なお、この間、校外においては、同年八月二二日の南但総決起集会(後述)、同年九月八日の但馬高校連合解放研の結成、同日から翌九日にかけての元津事件の発生(前述)、同年一〇月二〇日から同月二六日までのF宅包囲監禁事件の発生(前述)と、八鹿高校を取り巻く解放同盟の運動は激しさを増していた。
(一一) 解放研の生徒たちは、同年一一月一二日八鹿高校同和教育室の高本教諭に対し、同校の同和教育のあり方などについて話合いをすることを申し入れ、同教諭は、職員会議で検討のうえ同月一四日に教頭を通じて返答する旨回答したが、同月一三日の職員会議は解放研との話合いを拒否する旨決定し、翌一四日には教頭が不在のため解放研へは何らの返事もなかつた。
翌一五日解放研生徒は、高本教諭と右申入れの件につき数時間にわたり話し合い、結局高本教諭が右生徒と一六日午後に話合いに応ずることとなつたが、同一六日の職員会議で右話合いも断ることになつたため、解放研の生徒はこれに対し強く抗議し収拾のつかない事態となつた。そこで、職員会議としては、同和教育室の三名の教師が、①外部者を入れないこと、②時間も同日午後三時から同四時までの一時間とすることの条件で応じる旨回答し、結局第三職員室で話合いをしようとしたところ、解放研の生徒たちはゼッケン、鉢巻をつけた確認会・糾弾会のスタイルで、いきなり教師たちに、ばり雑言を浴びせ、途中からは他校の解放研の生徒らも加わり、教師に対し一方的に罵倒を続け、結局午後六時ころ多数の八鹿高校教師が高本教諭らを連れ出した。
解放研生徒らは、八鹿高校教師らに話合いの意思はないものとして不満感をつのらせ、同日Cらに右事情を説明し解放同盟の支援を要請する一方、同月一八日から同校職員室前廊下で座り込むことを決めた。
(一二) 解放研の生徒二一名は、同月一八日「三項目の要求」(その内容は事実欄第二の五2(三)別記1記載のとおりである。)を掲げて予定どおり座り込みを開始し、右座り込みを支援するため南但馬を中心とした解放研の生徒のほかCらが同校に駆け付けシュプレヒコール等を行い、同日夜には、八鹿町民ホールで解放同盟南但支部をはじめ各町職員組合、育友会等多数の団体をもつて「八鹿高校教育正常化共闘会議」が組織され、Cがその議長となり、本部を右町民ホールに、現地闘争本部を同校校長室隣の応接室に、それぞれ設置した。その闘争方針は、七項目にわたるもので、その内容は事実欄第二の五2(三)別記2記載のとおりである。
(一三) 翌一九日は国鉄スト等で八鹿高校の授業がカットされたことなどから、翌二〇日にかけ、同校内は解放研生徒の座り込みはなおも続いていたが、一応の平静さを取り戻していた。
この間、同月一九日には県教育委員会から八鹿高校教師たちに、解放研生徒との話合いに応じるようにとの要求が出されたが、八鹿高校教師らは翌二〇日に同年五月以前の状態に戻すことのみを回答したにとどまり、事態解決の進展はみられなかつた。
これに対し、同校外では、前記「八鹿高校教育正常化共闘会議」が、同日名称を「八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議」と変更し(以下この両者を単に共闘会議ということもある)、同日以降毎夜七時から同九時ころにかけて、同共闘会議主催の抗議デモ、集会が開催され、多数の解放同盟員をはじめ共闘会議構成員らがこれに参加し、他方これと並行して八鹿高校教師の前記態度を非難、攻撃する多数のビラが街頭で配布された。
なお、右配布ビラ(甲第一一〇号証)には、共闘会議の参加団体として、解放同盟兵庫県連合会北但・南但の各支連協、同四支部、兵庫県教職員組合朝来支部の一三分会、兵庫県高教組但馬支部八鹿分会朝来班、八鹿・養父・朝来をはじめとする一五の各自治労の町職、八鹿地区労内の全電通八鹿分会等、八鹿高校育友会、生野高・和田山商高・八鹿高校朝来分校・近大付属豊岡女子高・養父中の各解放研、八鹿町同和教育推進協議会、兵庫県教職員組合養父支部内の二二の小中学校の分会ないし教師集団・養父・生野・八鹿・和田山の各町における八鹿高校差別教育糾弾共闘本部、八鹿町区長会等が記載され、昭和五〇年二月一〇日付けの南但一〇町の町長連名の声明書(乙第二一号証)には、共闘会議は南但地域の部落解放同盟二二支部とこれに連帯する労働組合その他民主団体により組織された旨記載されている。
(一四) このような解放研・解放同盟の動きに対し、八鹿高校教師らは、事態の切迫を感じとり、同月一七日には神鍋で職員集会を開いて今後の対応策を練り、同月一八日からは集団で登下校し、同月二〇日からは城崎町の旅館に集団で宿泊するなどして結束を固めるとともに、詳細な連絡・協議ができる体制を整えた。
(一五) 解放研生徒の座り込みは、同月二一日も引き続き行われていたが、右生徒らはなんら進展のみられない事態を不満として、同日午後四時からハンガーストライキ(断食闘争)に入り、同夜は同校に泊りこんだ。右ストライキにつき八鹿高校教師たちは、何らの措置も施さないまま、集団で下校した。
Cは、右事態に対処するため、同日夜抗議集会終了後に、解放同盟南但各支部の支部長等を前記現地闘争本部に呼び集め、ハンガーストライキに入つた生徒の健康状態からして、連休の前日である翌二二日中にはどうしても同校教師たちと解放研生徒が話し合う機会をつかみたい旨話し、そのため翌二二日午前一〇時に町民ホールに解放同盟員五〇〇人程度を集めて欲しいと動員を指示した。
(一六) 翌二二日は、いわゆる八鹿高校事件の発生した日である。
(1) 同日、八鹿高校教師たちは、八鹿駅に集り、集団で登校したが、右登校の間もいわゆる解放車がアジ演説を行いながら右教師らにぴたりと付添い、また既に同校にはゼッケン・鉢巻をした解放同盟員数十名のほか、いわゆる解放車も二台ほどが校内に入つているなど、異常な状況であつた。
(2) 右のような状況のほか、教師たちは、既に糾弾闘争のための駐車場が小中学校に設けられている、大量の人それも屈強の若者を動員することの指示が出ている、同月二〇日過ぎてからは糾弾のための投光器が本館周辺に設置されているなどとし、このまま夕方まで授業を続ければ、同月二三、二四日の連休中に解放同盟による徹底した糾弾を受けるとして、全員年休をとつて下校する旨職員会議で決定した。
(3) そこで、教師たちは、生徒たちに教師全員が年休をとつて下校する旨伝えたのち、午前九時三〇分ころ集団(約六〇名)で八鹿駅に向け下校を開始し、一旦は県教育委員会関係者及びCら解放同盟員十数名に阻止されかかつたが、それを振り切り兵庫県養父郡八鹿町八鹿一〇五七番地所在の立脇履物店前まで押し出ることができた。
(4) しかし、八鹿高校教師たちは、右事態を聞きつけた解放同盟員らにより下校を阻止され、同所にスクラムを組んで座り込んだ。そこで解放同盟員らは、Cの指示のもと、片山正敏ら同校教師に対し、その頭部、顔面等を殴打し、あるいはその腕、足、背部等を蹴るなどの暴行を加え、さらに右教師たちを同校に連行するために腕、足等をもつて引きずりマイクロバス又はトラックに乗せ、あるいは両腕等を取つて徒歩で連行するなどして、同年午前一〇時三〇分ころまでに約三〇〇メートル離れた同校第二体育館(旧体育館)に連れ込んだ。
(5) 解放同盟員らは、同所において、教師一人を数人で取り囲みスピーカーを耳元近くにあて「解放研生徒と話合いをせよ」と怒鳴り、ついには教師らの頭部、背中、腰、脇腹、大腿部等を蹴る、小突く、殴るなどし、髪をわしづかみにして引きずり回し(このため頭髪が抜けた教師もいた。)、あるいは頭を壁に打ちつけ、冷水をバケツ等で頭から浴びせ、胸ないし背中に流し込むなど教師たちの精神的、肉体的限界に達するほどの暴行を加えたため、この段階で意識不明になる者すら出る状態であつた。
(6) さらに、解放同盟員らは、右第二体育館における糾弾に対しなお抵抗を続けている教師らを、本館二階の解放研部室、会議室に連行し、前記の方法による暴行のほか、タバコの火を顔にこすりつける、牛乳びんで頭を殴る、鉛筆を指の間に挾さんで締めつける、南京錠で頭・顔を殴る、メリケンサックで顔面を殴打するなど一段と凶暴な方法による暴行を加えた。
(7) このように、第二体育館、本館の解放研部室、会議室等における糾弾の結果、人事不省に陥つた教師は救急車で病院に運ばれたりした。また、残つた教師は、解放同盟員らにより、それぞれの意思に反して「解放研生徒と話合わなかつたことを反省する。」「過去の同和教育は誤つていた。」「今後は解放研の生徒に学びつつ同和教育を進めていく。」などという趣旨を記載した自己批判書又は確認書の作成を余儀なくさせられた。
(8) その後、Cらは、同夜一〇時過ぎころ、片山正敏ら三〇名足らずの教師らを同校第一体育館に連行し「総括集会」を開き、多数の解放同盟員らの前に整列させ、片山正敏ら教師に対し、前記自己批判書又は確認書は自分の意思で書いたものであるとの確認を強要し、右Cが八鹿高校差別教育糾弾闘争は勝利した旨の宣言を行い、同夜一一時近くに至りようやく糾弾会終了を宣言した。
なお、解放研生徒らのハンガーストライキは、午後一一時ころ中止された。
(9) このような糾弾の結果、八鹿高校教師たちは治療期間およそ一週間から二か月にわたる傷害を受け、片山正敏に至つてはその暴行・傷害の状況から、のちに殺人未遂罪として告訴するほどであつた。
(10) なお、八鹿高校生徒たちは、前記立脇履物店前の状況等から、事態収拾に向けデモ行進を行おうとし、それが阻止されるや午後一時ころから八木川の河原においてC、八鹿高校育友会、八鹿町ほか南但各町の町長、八鹿高校校長、八鹿町教育長等が集るなか「暴力反対。」「先生を返せ。」との抗議集会を開いたが、八鹿高校内において行われていた前記状況を正確に知らされることなく時間がたち、結局解放同盟県連代表の今後正常な授業ができるようにすること、暴力は絶対に避けること、解放研生徒のハンガーストライキは止めさせること等の発言を最後に、デモ行進許可の制限時間である午後五時過ぎころ解散した。
(一七) その後、Cほか三名は、同年一二月二日に右八鹿高校事件(逮捕監禁致傷、強要の被疑事実)で兵庫県警に逮捕され、右逮捕及びこれに伴う捜索には警察官、機動隊員約二〇〇〇人が動員され、その事実は新聞に大きく報道され、さらに同月二四日神戸地方検察庁から逮捕監禁、強要、傷害罪で起訴された。
神戸地方裁判所は、昭和五八年一二月一四日にCらを右八鹿高校事件につき逮捕監禁致傷、傷害、強要罪を構成するとして、有罪の宣告をしている。
3 狭山差別裁判闘争
(一) 以下の事実は、いずれも公知の事実である。
すなわち、いわゆる狭山事件とは、K(現再審請求人)が、昭和三八年五月一日、埼玉県狭山市で自転車に乗つて下校途中の女子高校生を山中に連れ込み、同女を強姦、殺害してその鞄のなかにあつた万年筆など在中の筆入れを強取し、同女の死体を一時付近の芋穴に逆吊りにして隠し、かねて用意の脅迫状を同女の家に届けたのち、同女の死体を右芋穴から引き上げ、農道に掘つた穴に埋めたというもので、余罪である窃盗、傷害、暴行、横領罪とともに起訴され、昭和三九年三月一一日浦和地方裁判所で死刑判決、昭和四九年一〇月三一日東京高等裁判所で無期懲役の判決、昭和五二年八月九日最高裁判所で上告棄却の決定を受け、そのころ右無期懲役の判決が確定したものである。
右第一審において、Kは、公判廷においても公訴事実をすべて認めていたのに対し弁護人らが別件逮捕勾留を中心に幅広く争つたにすぎなかつたが、第二審にいたり、Kが公訴事実の主要部分である強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂を全面的に争うに至り、およそ一〇年に及ぶ歳月をかけての証拠調が行われ、他方、右証拠調の進展に呼応して部落解放同盟などが、狭山事件の捜査には部落民に対する差別的捜査があつたとして、法廷の内外において差別裁判反対を主張し、強烈な支援闘争を展開して世間の耳目を集めた。
右判決が確定してからは、Kは再審請求を行い、昭和五五年二月五日には東京高等裁判所で再審請求を棄却する旨の決定がなされ、最高裁判所においても昭和六〇年五月に特別抗告を棄却したため、その後右Kは昭和六一年八月に再び東京高等裁判所に再審請求をしているものである。
(二) <証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(1) 右に述べたように、部落解放同盟は、狭山事件を差別裁判であるとして多数の人の差別裁判取消しの署名、相当数の地方議会による公正裁判要求、文化人、総評、日教組、全日自労、自治労等の共闘を得て、昭和四九年一〇月に予測されていた東京高等裁判所の判決に向け、全国的規模で差別裁判取消しの要求運動を展開していた。
(2) このような折、たまたま九州を出発した「K青年完全無罪判決要求全国大行動隊」が、昭和四九年八月二一日に但馬地方に入り、同月二二日に南但馬地方を通過するようになつたことから、南但支連協・南民協・和田山地区労働組合協議会・解放同盟傘下の各労働組合・南但一〇町各町同協が主催して、同日午後、和田山町公民館前広場において「狭山差別裁判完全勝利南但総決起大会」が開かれた。その目的は、狭山差別裁判を自分とのかかわりで差別の現実をとらえ、完全解放達成の実践行動を起すことであつた(この点は当裁判所に職務上顕著な事実である。)。
(3) その後、同年一〇月三〇日には、狭山裁判につき八鹿町決起集会が開かれ、東京高等裁判所の判決宣告日である同月三一日には東京において全国集会が開かれ、解放同盟甲支部支部員らが参加している。
三本件支出の適法性の有無
1 「朝来闘争」関係
(一) Aが、別表「朝来闘争」欄記載の支出をしたことは当事者間に争いがない。そして、<証拠>を総合すれば、右各支出の支出負担行為としては「朝来闘争分」、支出科目としては「(款)教育費、(項)社会教育費、(目)同和教育推進費、(節)負担金補助金及び交付金」とされていること、その支出時期はいずれも昭和四九年一二月三日とされていること、しかし支出決定は翌昭和五〇年二月一四日となつていること、支出先は八鹿町民主化協議会(その会長は町長であるA)であることの各事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
(二) そこで、まず右支出先である八鹿町民主化協議会の実態につき検討するに、<証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(1) 八鹿町民主化協議会は、昭和四三年ころ設立された組織で、その目的は人間の平等と基本的人権を根本理念とし、八鹿町民の民主化の促進について、他の関係機関と連携して、本事業の推進をはかるとし、右目的達成のために、①町民の民主化促進に関する各種調査研究、諸事業、②同和教育の推進、啓蒙啓発、③その他必要と認めた事業を行うとしている。そして、その事業を行うために、①学校教育部(主に学校における同和教育を担当)、②社会教育部(各部落巡回及び関係団体における啓蒙教育活動を担当)、③行政部(地方改善事業、経済更正(生)、各種問題処理、各種団体との連携を担当)、④研修部(地区内の自覚更正(生)活動、民主化促進の研修を担当)がおかれている。
(2) その組織は、八鹿町町民をもつて組織し、機関として、①町民の代表者として各機関、諸団体(例えば、町長、議会、教育委員会、公民館職員、役場職員、各校長及び教職員、区長、民生委員、南民協役員、育友会、婦人会、地区等)から選ばれた代議員、②役職員(会長、副会長、常任委員等)、③会議として総会及び常任委員で構成する常任委員会等があり、この八鹿町民主化協議会を代表し統括する会長には町長を充てることとなつている。
そして、事務所は八鹿町役場内に置くとし、本件で問題となる昭和四九年当時は、同役場の同和対策室内にあり、同会の事務処理も同役場の右同和対策室の職員がおおむね担当していた。
(3) 同会の経費は、規約上は、会費、町補助金、寄付金、その他の収入で充てるとしているが、昭和四九年当時はほとんど八鹿町からの補助金でまかなつていた。
そして、昭和四八年度の財源は八鹿町からの補助金二、三十万円程度で、昭和四九年度の当初予算も何十万円程度の予算であつたが、その後解放同盟の運動が盛上がりをみせたこと等から経費が増加し、数百万円を越える金額(甲第一四号証の八鹿町民主化協議会の現金出納簿には昭和四九年度累計で収入金額八四七万四九二六円、支払金額八一三万七〇八二円と記載されている。)にはねあがつた。このように増加したのは、解放同盟の支部等からの必要経費の要求が出され、その要求に基づき、最終的にAが八鹿町の公金を八鹿町民主化協議会に支出したためである。
同会は、右補助金の大半である七三〇万六七五〇円を昭和五〇年二月に支出しており、その支出内容の主なものをあげると、本項で問題としている「朝来闘争」関係一四万四三二〇円、備品購入費六七万〇五七〇円及び三七万七四〇〇円、衣服購入費二九万円、後述の「狭山闘争」経費六六万二七三三円、解放同盟の八鹿町内支部の活動費二六万六〇〇〇円及び八万円、パワーアンプほか五七万〇四〇〇円、撮影機ほか一九万五九〇〇円、後述の「八鹿高校闘争」経費一八九万一三九五円及び一六五万九〇六八円などとなつている。そして、八鹿町民主化協議会の昭和四九年度における支出については、既に述べたように、同年度においてF宅包囲監禁事件・八鹿高校事件等が発生し、その緊急性から同会の総会・常任委員会等は十分機能せず、会長であつたAが最終的な判断を下していたものである。
(三)(1) 右のような八鹿町民主化協議会の実態からすれば、少なくとも昭和四九年度後半は、同会としての自主的、主体的な活動が十分行われていたとは認められず、とりわけ別表「朝来闘争」欄記載の支出の支出負担行為を「朝来闘争分」と八鹿町自らが認めて支出決定していること(後述)からもわかるように、八鹿町民主化協議会は八鹿町の公金支出の経由機関との色彩を強めていたものと認められる。
このことを前提に、Aが八鹿町民主化協議会に対してした別表「朝来闘争」欄記載の支出の適法性の有無につき検討するに、右支出の支出科目が「(節)負担金補助金及び交付金」とされ、また八鹿町民主化協議会の財源が八鹿町からの補助金とされていること等からして、Aの同会に対する右支出は「補助金」として支出したものと解される。
(2) ところで、地方自治法二三二条の二は、普通地方公共団体が寄付又は補助をする権限を有することを定めるとともに、右の寄付又は補助は、その公益上必要がある場合にのみ限られることを定めているのであるから、当該地方公共団体は、右の公益上の必要があると認定するときには、その裁量により寄付又は補助をすることができる。
補助金の支出が「公益上必要ある場合」にあたるかどうかについては、第一に、普通地方公共団体の収入は、まず地方自治法二三二条一項記載の経費に支弁されるべきものであるから、これに属しない寄付又は補助は、普通地方公共団体の財政に余裕のある場合に始めてこれをなしうるものであつて、寄付又は補助の公益上の必要性の判断には、当該普通地方公共団体の財政上の余裕の程度を考慮しなければならない。
また普通地方公共団体が特定団体の事業活動の経費を補助することが公益上必要であるか否かは、右事業活動が果すべき公益目的の内容、右目的が普通地方公共団体の財政上の余裕の程度との関連において、どの程度の重要性と緊急性を有するものであるか、右経費補助が公益目的実現に適切(合目的性)かつ有効(有効性)な効果を期待できるか、他の用途に流用される危険がないか、公正、公平など他の行政目的を阻害し、行政全体の均衡を損なうことがないかなど諸般の事情を総合して判断すべきであり、そのうえで公益上必要な場合に該当する事実がなく、又は右認定が全く条理を欠く場合には、右補助金の支出は違法である。
そしてさらに、補助金支出が、目的違反、動機の不正、平等原則、比例原則違反など裁量権の濫用・逸脱となるときには、右補助金支出は違法といわなければならない。
(3) 同和対策事業特別措置法(昭和四四年法律第六〇号)は、すべての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのつとるものであり、「国及び地方公共団体は、同和対策事業を迅速かつ計画的に推進するように努めなければならない。」(第四条)とし、また「同和対策事業の目標は、対象地域における生活環境の改善、社会福祉の増進、産業の振興、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化等を図ることによつて、対象地域の住民の社会的経済的地位の向上を不当にはばむ諸要因を解消することにあるものとする。」(第五条)とし、その施策として、①対象地域における生活環境の改善を図るための措置、②対象地域における社会福祉及び公衆衛生の向上及び増進を図るための措置、③対象地域における農林漁業の振興を図るための措置、④対象地域における中小企業の振興を図るための措置、⑤対象地域の住民の雇用の促進及び職業の安定を図るための措置、⑥対象地域の住民に対する学校教育及び社会教育の充実を図るための措置、⑦人権思想の普及高揚など対象地域の住民に対する人権擁護活動の強化を図るための措置、⑧その他第五条の目標を達成するために必要な措置などの広範な措置を講じることを定めている(第六条)。
これらの①ないし⑥の措置は、対象地域における経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上に寄与するものであるが、解放のためには、これらの施策とともに心理的差別の解消が必要でありそのためには⑦の措置が重要であり、したがつて、心理的差別の解消のための施策の実施も、他の多くの前記施策の実施と並んで、普通地方公共団体の果すべき公益目的の一つということができる。
(4) しかしながら、朝来闘争の意義について検討するのに、右闘争は、前記のとおり、部落解放運動の中心的存在である解放同盟が自己の運動を批判するFら日本共産党及びこれと連携する者に対抗する活動であるということができるところ、日本共産党及びこれと連携する者が同対法の目的に反対しているのではなく、これらの者と解放同盟との対立は主として部落解放同盟の確認会、糾弾会の方法の適否を巡つてのいわば部落解放の方法論上のものに過ぎないと解されるから、そのような問題の解決は、その一方の方法が他方の方法よりも明らかに公益性において劣る場合を除き、確認会、糾弾会の実施主体ではない八鹿町のような普通地方公共団体の果すべき同対法の目的実現その他の公益とは本来関係がないものといわねばならない。ところが、Fらの主張する方法が解放同盟側の方法より明らかに公益性において劣るということはできないから、特段の事情のない限り、八鹿町が解放同盟側のみに補助することは、必ずしも公益に合致するともいえないばかりか公平を欠くことにもなりかねない。そして、Fらの言動が解放同盟との激しい対立を引き起し、或いは同人の作成配付した文書には差別意識を助長する結果をもたらすおそれがあるものが見受けられ、八鹿町の解放行政に悪影響を与えていたとしても、本来同対法の目的実現方法についての文書活動に端を発した対立につき、これを実力で解決しようとする解放同盟の側に立つて右闘争に参加することに格別の公益上の具体的理由はないし、まして昭和四九年一〇月二二ないし二六日の間の朝来闘争の犯罪性や仮処分違反の事実を考慮するときは、八鹿町が町民の右闘争参加費用まで援助する公益上の具体的必要性をたやすく肯認することはできない。
被告らはこの点に関し、Fに対する確認糾弾活動の正当性を主張し、かつ対象地域の住民の劣悪な経済生活環境からして、解放同盟の運動に対する行政による援助の必要性を強調するが、このような差別解消のための路線問題解決のための大衆運動は、反対する他の大衆運動を誘発するだけで、その一方だけを経費援助することは、普通地方公共団体の実現すべき公益とは関係がないものといわなければならない。
(5) そこでまず、別表「朝来闘争」欄のうちの「集会バス借上料」四万円及び「パン代」四三二〇円であるが、前記(一)、(二)の各証拠によると、八鹿町職員で構成する自治労の組合員及び八鹿町民主化協議会関係者が、朝来闘争(F宅包囲監禁事件)に参加するため、自治労において借上げたバスで早朝出発して朝来町に赴いたことがあり、右バスに乗込んだ組合員は八鹿町の同対室及び社会教育課の職員で町民協の職員をも兼務している五、六名であり、そのほかの右バスの利用者は、自治労に招集を受けた者で町民協の役職者も含まれていたこと、その後右借上料支払の段階になつて、自治労から要請があつたので、Aは、右の行動が八鹿町の町民協の事業とすることを相当と認め、右借上料及び右バスの利用者の朝食のパン代を右町民協の予算から支出することと、八鹿町において右経費を町民協に補助することを決定し、八鹿町の町長として右合計四万四三二〇円を右町民協に支出し、右町民協の会長として右金員を全但交通外にバス借上料及びパン代として支払つたことが認められる。
以上の各事実によると、右金員の支出は、形式的には八鹿町の右町民協に対する補助金の交付であるとともに、実質的には自治労に対する補助金の交付であつて、解放同盟の側に立つ自治労の前記のとおりの朝来闘争参加活動の経費を補助したものということができる。
しかしながら、八鹿町としては、Fらの言動が解放同盟との激しい対立を引き起し八鹿町の解放行政に悪影響を与えていたとしても、F糾弾闘争(朝来闘争)に共闘していたわけでもなく解放同盟の側に立つて右闘争に参加することに格別の公益上の具体的理由がないことは前述のとおりであるし、まして公務とは無関係の自治労組合員の早朝の出発まで援助する公益上の具体的必要性はたやすく肯認できず、そこに若干の公益目的実現の可能性を肯認できるとしても、その有効性と適切性とは僅少と解され、その程度の公益上の必要性のある場合全てを補助するときは普通地方公共団体の財政は破綻する恐れが多大であることを考えると、前記の補助金の支出は、地方自治法二三二条の二に定める公益上必要がある場合にあたるということができない。してみると、右補助金の支出は違法であるといわなければならない。
(6) 次に、別表「朝来闘争」欄のうち「交通事故補償」一〇万円であるが、<証拠>を総合すれば、右交通事故は、事故発生当日の午前四時ころ招集を受けた自治労所属の八鹿町及び山東町の各職員がそれぞれ公務としてではなく自家用車で朝来闘争の支援に向う途中接触事故を起したもので、双方で六〇万円からの費用が要り物損事故としては大きかつたが人身事故としては擦過傷程度であつたこと、事故の責任の殆んどは被害者の山東町の職員の側にあり法律的には八鹿町は支払義務はないが見舞金として八鹿町民主化協議会を経て、支払つたものであること、Aとしては右支払を放置しておくと、部落解放運動を推進している者から批判が出て、八鹿町民主化協議会の目的にもはずれると理解して支出したことの事実を認めることができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。右によれば、見舞金の支払義務が八鹿町にないことは明らかであり、むしろ右事故は事故当事者間において私人の立場で処理すべきものであるにもかかわらず右見舞金を支出することは右闘争参加者に特別の利益を与えたもので、八鹿町としての支出の動機はその主体性のなさを示すものにほかならず、右支出もいかなる意味においても「公益性」があるとはいえないから、違法であるといわなければならない。
2 「狭山闘争」関係
(一)(1) Aが、別表「狭山闘争」欄記載の支出をしたことは当事者間に争いがない。
(2) まず、八鹿町民主化協議会関係の支出(別表「町民協」欄参照)であるが、<証拠>を総合すれば、右支出の支払日は八万円(南但総決起集会分)については昭和四九年一〇月二日以前の近い時期(乙第二五号証によれば、支払日昭和四九年一二月三日となつているが、甲第一四号証一枚目一〇月二日欄に南但集会八・二二、八万円と記載されていることから、Aの八鹿町民主化協議会に対する支出が右一〇月二日以前の近い時期であることは明らかである。)、他の六万一五〇四円(八鹿町集会分)及び六六万二七三三円(全国集会分)についてはいずれも昭和四九年一二月三日、支出決定日は後二者につきいずれも昭和五〇年二月一四日であること、右六六万二七三三円の支出負担行為として「一〇万人集会分、狭山闘争」等、支出科目として「(款)教育費、(項)社会教育費、(目)同和教育推進費、(節)負担金補助金及び交付金」とされていること(ほかの支出については、支出負担行為・支出科目は証拠上定かではないが、支出対象からして同様の支出科目であると推認できる。)、支出先は八鹿町民主化協議会であることの各事実を認めることができる。
(3) 次に、八鹿町同和教育推進協議会関係の一六万八四五〇円の支出(別表「町同協」欄参照)であるが、<証拠>を総合すれば、右支出は昭和四九年九月の補正予算に基づき、昭和四九年一二月四日に同会会長Hに支出(二〇万円)されていること、同支出の支出負担行為としては「昭和四九年度町同協負担金第三期払分」、支出科目は前項同様「(款)教育費、(項)社会教育費、(目)同和教育推進費、(節)負担金補助金及び交付金」とされていることの事実を認めることができる。
(4) さらに、南民協関係の支出(別表「南民協」欄参照)であるが、<証拠>を総合すれば、右支出は、昭和四九年一二月三日に八鹿町から八鹿町民主化協議会に支出され(支出決定日は昭和五〇年二月一四日)、右支出決定日に八鹿町民主化協議会から南民協に支出されたこと、右八鹿町から八鹿町民主化協議会に支出された支出負担行為及び支出科目は定かではないが、同会が右金員を南民協に支出した直前の八鹿町から八鹿町民主化協議会に対する補助金のうちの一六一万七〇〇〇円の支出負担行為の内訳が「狭山闘争、朝来闘争、学習会経費、狭山参加費その他」、支出科目が前項と同様になつていること(甲第一五号証)、右金員は昭和四九年八月二二日の狭山闘争南但決起集会分の南民協負担金であることの各事実を認定することができる。そうすると、別表「狭山闘争」関係の三万四八〇〇円の支出は八鹿町から八鹿町民主化協議会に対する支出で、その支出負担行為は八鹿町民主化協議会に対する補助金、支出科目は右と同様と推認できる。そうすると、Aが南民協に直接支出したとする原告らの主張は、明らかな誤解であるから、以下右支出は八鹿町民主化協議会に対する支出として検討する。
(5) 最後に、解放同盟支部関係の支出(別表「解同支部」欄参照)であるが、<証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
ア Aは、昭和四九年度解同丁支部活動費として、同支部員Lに五〇万円(支出日は昭和四九年八月三〇日、支出決定は同年一〇月二日)並びに四九万四〇〇〇円(支出日及び支出決定日は昭和四九年九月二五日)を支出した。さらに、その後、八鹿町の補助金を受けた八鹿町民主化協議会は、昭和五〇年二月一四日に支部活動費として右Lに二六万六〇〇〇円支払つている。
イ Aは、昭和四九年度解同戊支部活動費として、同支部長Mに対し、二〇万円(支出日及び支出決定日は昭和四九年一〇月二日)並びに七万円(支出日及び支出決定日は昭和四九年一〇月九日)を支出した。さらに、その後、八鹿町の補助を受けた八鹿町民主化協議会は、昭和五〇年二月一四日に支部活動費として右Mに八万円支払つている。
ウ Aは、昭和四九年度解同乙支部活動費として、同支部長Nに対し、一五万円(支出日昭和四九年八月三〇日、支出決定日同年一〇月二日)並びに三万二〇〇〇円(支出日及び支出決定日昭和四九年九月二五日)を支出した。
エ Aは、昭和四九年度解同己支部活動費として、同支部長Oに対し、一〇万円(支出日昭和四九年八月三一日、支出決定日同年一〇月二日)並びに五万四〇〇〇円(支出日及び支出決定日昭和四九年九月二五日)を支出した。
オ 右支出のうち、Aから直接解放同盟支部に対してした支出の支出負担行為は、それぞれの昭和四九年度の支部活動費であり、支出科目は、八鹿町民主化協議会関係ないし八鹿町同和教育推進協議会の場合と同様である(なお、原告らは、前記アイの八鹿町民主化協議会から解同支部に対してした支出をもAから直接右解同支部に支出したと主張するが、これは明らかな誤解であるから、以下右支出は八鹿町民主化協議会に対する支出として検討する。しかるときは、右支出の支出負担行為の内容及び支出科目は前記(4)の南民協関係の項において述べた内容の支出と同様と推認できる。)。
(二) 以上をまとめると以下のようになる。
(1) 八鹿町民主化協議会に対する支出
ア 八万円(南但総決起集会分)
イ 六万一五〇四円(八鹿町集会分)
ウ 六六万二七三三円(全国集会分)
エ 三万四八〇〇円(南但総決起集会分の南民協に対する負担金であり、原告らが直接の支出先を南民協と主張していたもの)
オ 二六万六〇〇〇円(解同丁支部に支出したもの)
カ 八万円(解同戊支部に支出したもの)
(2) 八鹿町同和教育推進協議会に対する支出
一六万八四五〇円
(3) 解同支部に対する支出
ア 五〇万円及び四九万四〇〇〇円(丁支部)
イ 二〇万円及び七万円(戊支部)
ウ 一五万円及び三万二〇〇〇円(乙支部)
エ 一〇万円及び五万四〇〇〇円(己支部)
(4) 以上の支出は、その支出負担行為、支出科目等からしていずれも八鹿町から各支出先に対する補助金として支出されたものと解される。
(三) 八鹿町民主化協議会に対する支出の適法性の有無
(1) <証拠>を総合すると、右支出の内容は以下のとおりであり、同認定を左右するに足りる証拠はない。
ア 八万円(南但総決起集会分)
右支出は、南但一〇町の町同協等が主催し、昭和四九年八月二二日に和田山町公民館前にて開催した「狭山差別裁判完全勝利南但総決起大会」に八鹿町民主化協議会関係者が参加するために使用したバスの借上料としてバス会社に支出されたものである。
イ 六万一五〇四円(八鹿町集会分)
右支出は、八鹿町内において、昭和四九年一〇月三〇日に開催された狭山闘争八鹿町民総決起集会での設備費用であり、フジタ文房堂に支出されたものである。
ウ 六六万二七三三円(全国集会分)
右支出は、東京において、昭和四九年一〇月三一日に開催された狭山闘争全国集会に、同和地区の町民四二名、八鹿町民主化協議会の役員一八名(合計六〇名)が町民協として参加した費用で、東京までの往復のバス代及び弁当代が主なものである。
エ 三万四八〇〇円
右支出は、昭和四九年八月二二日に開催された前記「狭山差別裁判完全勝利南但総決起大会」につき南民協が負担した費用の八鹿町に対する分担金を、八鹿町民主化協議会を通じて支出したものである。
オ 二六万六〇〇〇円(解同丁支部に対するもの)
右支出は、昭和四九年一〇月三一日に東京で開催された前記狭山裁判全国集会に参加した丁支部員九〇名について、補正予算成立後に同支部活動費補助として八鹿町民主化協議会を通じて同支部に支出されたものである。
カ 八万円(解同戊支部に対するもの)
右支出は、前項の丁支部に対する二六万六〇〇〇円と全く同様である。
(2) 以上の各支出は、いずれも八鹿町民主化協議会に対する支出であるが、同会が八鹿町の公金支出の経由機関にすぎないとの色彩を強めていたことは、「朝来闘争」関係の支出に際し述べたとおり(理由欄第三の三1(三)参照)であり、このことを前提に右公金の流れをみると、最終的にはいわゆる狭山闘争のための支出ということができる。
そうすると、八鹿町の右支出につき、地方自治法二三二条の二に定める「公益上の必要性」が要求されるところ、解放同盟が中心となつて運動を展開している「狭山闘争」の趣旨は、狭山裁判無罪獲得にあることは、前述のところ(理由欄第三の二3参照)から明らかであり、八鹿町が期待した行政効果が仮に同対法の趣旨に基づく部落解放であつたとしても、右支出は結果としては狭山裁判無罪獲得を目的とした解放同盟の運動を支援するものであることからすれば、それは普通地方公共団体の事務の範囲(同事務の内容は、地方自治法二条二項に定められ、同条三項の例示からして、普通地方公共団体が現に裁判所で審理されている事件につき個別具体的な裁判の内容にわたつてその当否を主張し、一定の内容の裁判を求める運動を展開することは、普通地方公共団体の事務の範囲を越えたものである。)を越えた司法に対する越権であり、「公益上の必要性」はないといわざるをえない。
この点、承継前被告A本人尋問の結果中には、Aは、裁判内容に対する支援というよりは部落解放運動に対する支援であるとの部分があるが、当時の解放同盟の運動内容からして、その運動支援が狭山裁判無罪獲得であることは容易に推測でき、また当時八鹿町の助役をしていた証人森木正三の証言によれば、八鹿町の行政としては狭山闘争は司法にかかわる問題を含みかかわるべきでないとの議論もあつたことが認められるのであるから、Aの右供述は措信しない。
(四) 八鹿町同和教育推進協議会に対する支出の適法性の有無
(1) まず、八鹿町同和教育推進協議会の組織、実態等につき検討するに、<証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
ア 八鹿町同和教育推進協議会は、南但馬地方において解放同盟が活発に活動を行うようになつた昭和四八年後半ころに設立されたもので、その目的は八鹿町における行政と教育と運動との連絡提携を強め、同和教育の実践、推進を図ることとし、右目的を達成するための事業として、①同和教育実践の推進を図るための調査と研究、②参加各組織の実践方策樹立の推進、③同和教育研究会、講演会等の開催、④資料の収集、広報活動、⑤関係諸機関、団体との連絡、⑥雇用開発の啓蒙、促進、⑦その他目的達成に必要な事業を行うとしている。
イ その組織は、八鹿町内の、①町及び教育行政関係者、②学校教育、社会教育、社会福祉施設関係者、③社会教育団体、④同和地区関係者、⑤職域関係者、⑥その他で組織し、この会の会議としては、総会、役員会、理事会、各部会(社会教育部会、学校教育部会、広報部会)からなり、会長、副会長、理事若干名で組織する常任理事会は、この会の運営と活動に関する計画の立案及び緊急事項の処理にあたるものとしている。
ウ 経費は、補助金その他の収入金をもつて充てるとしている。
エ 活動は、当初は、研修会、講演会等を行つていたが、解放同盟の活動が激しくなるにつれ、同会の活動も激しくなり、昭和四九年八月二二日の「狭山差別裁判完全勝利南但総決起集会」の主催者の一員となり(理由欄第三の二3(二)参照)、八鹿高校闘争においては、「八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議」の一員に加わつている(理由欄第三の二2(一三)参照)。
(2) 右によれば、八鹿町同和教育推進協議会は、その設立時期が解放同盟の活動の盛上がりにつれて組織されたと推測できること、その目的も「行政と教育と運動との連絡提携を強める」としていること、右「運動」は当時の事情からして主に解放同盟を指すものと解されること、組織の一員として「同和地区関係者」が加わつており、解放同盟の影響を及ぼしえたこと、その後の同会の活動内容等をあわせ考えると、同会は少なくとも昭和四九年度当時は、解放同盟と基本的に同じ立場に立ちその活動をしていたものと認められる。
③ ところで、Aが、八鹿町同和教育推進協議会に支出した補助金一六万八四五〇円の支出内容をみるに、<証拠>を総合すれば、八鹿町同和教育推進協議会は、右金員を同会の幹部が昭和四九年一〇月三一日に開催された狭山差別裁判全国集会の参加費用(旅費等)にあてたとの事実を認定することができる。もつとも、承継前被告A本人尋問の結果によれば、昭和四九年七月二八日開催の北但総決起集会参加費用も含まれるというが、乙第二五号証によれば、右同日に支払われた二〇万円の予算のうち、北但総決起集会参加費には九四五〇円が支出されているにすぎずその残額は一六万八四五〇円を越えるので、右金額一六万八四五〇円のなかに北但総決起集会の費用は含んでいないと解される。
そうすると、八鹿町同和教育推進協議会の前記実態を踏まえると、右補助金の支出についての「公益の必要性」の有無については、前項の八鹿町民主化協議会に対する支出と同様に考えることができるので、右一六万八四五〇円の支出も公益性を欠く違法な支出というべきである。
この点、承継前被告A本人尋問の結果中には、右参加の趣旨は、部落解放運動の支援は自分で体験しないと本当の支援はできないとの考えから幹部が参加したもので、同会の幹部の研修にすぎないとの部分があるが、既に述べたように八鹿町同和教育推進協議会は、昭和四九年八月二二日の「狭山差別裁判完全勝利南但総決起集会」の主催者の一員であり、その幹部の全国集会参加は、単に研修以上のもの、すなわち狭山闘争全国集会そのものへの参加と考えざるをえず、承継前被告Aの右供述は措信しない。
(五) 解放同盟各支部に対する支出の適法性の有無
(1) <証拠>を総合すれば、Aが解放同盟各支部に対し直接支出した公金は、いずれも支部活動費の名目ではあるが、昭和四九年一〇月三一日に開催された東京における狭山闘争全国集会参加のための費用で、その額は一人当り一万四〇〇〇円の割合であること、その内訳は丁支部九〇名参加分として五〇万円及び四九万四〇〇〇円(不足分二六万六〇〇〇円は前述のとおり八鹿町民主化協議会を通じて支払われている。)、戊支部二五名参加分として二〇万円及び七万円(不足分八万円は前述のとおり八鹿町民主化協議会を通じて支払われている。)、乙支部一三名参加分一五万円及び三万二〇〇〇円、己支部一一名分一〇万円及び五万四〇〇〇円であることの各事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) 右によれば、Aの解放同盟各支部に対する右支出は、いずれも、解放同盟が中心になつて運動していた狭山闘争全国集会参加のための費用を八鹿町が直接補助したこととなる。そして、狭山闘争は既にみてきたところからして狭山裁判無罪獲得にあるのであるから、八鹿町の狭山闘争支援の右支出は地方公共団体の事務の範囲を越えた司法に対する越権であり、「公益上の必要性」を欠くことは、八鹿町民主化協議会ないし八鹿町同和教育推進協議会に対する支出と同様で、その違法たるを免れない。
3 「八鹿高校闘争」関係
(一)(1) Aが、別表「八鹿高校闘争」欄のうちの町民協に対する支出をしたことは当事者間に争いがない。
そして、<証拠>を総合すれば、一八九万一三九五円及び一七〇万〇五八八円はいずれも支出負担行為として「八鹿町民主化協議会負担金補助金及び交付金(八鹿町の闘争経費)」、支出科目として「(款)教育費、(項)社会教育費、(目)同和教育推進費、(節)負担金補助金及び交付金」となつていること、右いずれの金額についても昭和五〇年二月一九日に支出決定がされているがこれはAの専決処分としてなされたこと、しかし現実の支出はいずれも昭和四九年一二月二七日であること、一八九万一三九五円は昭和四九年一一月二五日までの八鹿高校闘争分で一七〇万〇五八八円は翌一一月二六日以降の分であること、支出先は八鹿町民主化協議会であることの各事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) 次に、別表「八鹿高校闘争」欄のうちの町同協欄の一般会計一一五万〇九三五円をAが支出したことについては被告らにおいて明らかに争わないから自白したものとみなす。
そして、<証拠>を総合すると、右支出科目は八鹿町の総務費備品購入費であること、支出の内訳は①パイプテント二張 三五万一四〇〇円、②毛布一二〇枚 三四万五六〇〇円、③カメラ一台 一五万〇八四〇円、④石油ストーブ一六台、電気ストーブ四台及び電気ゴタツ一台 計三〇万三〇九五円の合計一一五万〇九三五円であること、右支出はいずれも昭和五〇年二月一四日に支出決定がされているがこれはAの専決処分としてされていること、しかし現実の支出はいずれも昭和四九年一二月二七日であること、支出先はそれぞれの納入業者であることの各事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(3) 最後に、Aが、別表「八鹿高校闘争」欄のうちの南民協に対する支出七〇三万三二一五円を支出したこと(その趣旨は別)は当事者間において争いがない。
ところで、<証拠>を総合すると以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
ア 昭和四九年一二月二七日養父福祉事務所において南但一〇町長会が開催され、右一〇町長が責任をもつことを条件に、八鹿高校闘争経費(後日の計算で七〇三万三二一五円)を事件発生地の八鹿町が南但一〇町に代り立替払いするとの合意が成立し、右合意に基づき八鹿町は関係業者等に支出した(当事者が、右支出先を南民協と主張しているのは、南但一〇町で構成する南民協を通じての立替払いであるとの点に着目してのことと解される。)。
イ 右経費の内訳は、①二二六万一五〇三円が和田山本部分、②一三一万二六五八円が共闘会議分、③三四五万九〇五四円が八鹿町闘争本部分であるが、右の南但一〇町長会において、各町で起つたことは当該町が処理するとの方針のもとに、右③の三四五万九〇五四円のうち三〇七万二四五〇円は八鹿町が負担し、残額三八万六六〇四円と右①②の合計額の三九六万〇七六五円を八鹿町が立て替えることと決定された。
ウ 他方、八鹿町が負担する三〇七万二四五〇円の内訳は、①三万〇一二〇円は解放同盟丁支部が負担すべきもの(八鹿町において同支部から回収済)、②一一五万〇九三五円は、八鹿町の総務課備品購入費として八鹿町の一般会計から支出したもの(原告らが一般会計の備品購入費一一五万〇九三五円と主張しているもの)、③残り一八九万一三九五円は、八鹿町民主化協議会に支出したもの(原告らが町民協に対する支出のうち一八九万一三九五円と主張しているもの)である。
右によれば、原告らの主張する金額は、一般会計の備品購入費一一五万〇九三五円及び八鹿町民主化協議会に対する支出のうち一八九万一三九五円の限度で重複していることとなる。また丁支部からは既に三万〇一二〇円を回収ずみであるから、結局八鹿町が立て替えた金額は三九六万〇七六五円となる。
この点、原告らは、右のような重複を示す証拠はないと主張するが、<証拠>を総合すれば、大屋町ではいわゆる八鹿高校闘争の経費の全額は概算で約八三〇万円(うち三〇七万二四五〇円は八鹿町負担分)とされていることが認められ、右金額は原告らの主張の一一七七万六一三三円(別表「八鹿高校闘争」欄の小計参照)を大きく下回つており、むしろ前記認定の八鹿町民主化協議会分三五九万一九八三円、一般会計分一一五万〇九三五円及び八鹿町立替分(当事者のいう南民協に対する支出分)三九六万〇七六五円の合計八七〇万三六八三円が右八三〇万円と大差ないこと、重複した金額(一八九万一三九五円及び一一五万〇九三五円)が前記認定のとおり八鹿町負担分と一致していることからすれば、原告らの主張する金額が右認定の限度で重複していることは明らかといわなければならない。
(二) 八鹿町民主化協議会に対する支出の適法性の有無
(1) <証拠>を総合すれば、右支出のうち一八九万一三九五円は、共闘会議の八鹿高校闘争経費のうちの昭和四九年一一月二五日までの分にあてる目的のもので、主に八鹿高校闘争支援者たちのための炊きだしの食費(おにぎり等)の経費に充てられ、右支出は八鹿町同和対策室が事務局(八鹿町民主化協議会の事務局と解される。)として管理支出していたものであること、他方一七〇万〇五八八円は右八鹿高校闘争経費のうち昭和四九年一一月二六日以降の分にあてる目的のもので、ビラ闘争、立看板闘争、抗議集会、ガソリン代等の費用に充てられ、右支出は八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議がすべて管理・支出したこと、右各支出はいずれも、南但一〇町長会議において、右一〇町の負担又は八鹿町の単独負担で八鹿町が支払の事務を担当する旨決定されたこと(支払に異論が出たが、部落解放は国民的課題であるから、行政として多少は乗越えて支出することとなつたものである。)、右支出の一部は、八鹿町内の業者が八鹿高校差別教育糾弾闘争会議側の参加者等の代金未払により困却していることから昭和四九年一二月二七日に八鹿町民主化協議会を通じて右未払代金を立替え支払つたものであること(いわゆる季節払い)の各事実を認定でき、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) ところで、八鹿町が八鹿町民主化協議会に支出した右支出は、「朝来闘争」関係の支出に際して述べたのと同様(理由欄第三の三1(三)参照)の理由で、「補助金」として支出されたものと解される。そうすると、地方自治法二三二条の二に定める「公益上の必要性」が要求されるところ、右の「公益上の必要性」の存否の判断については既に「朝来闘争」関係の支出に際し述べたところが右補助金についても妥当することはいうまでもない。
そこで右補助金につき「公益上の必要性」の存否について検討するのに、まずその支出目的であるが、支出の相手方である八鹿町民主化協議会は当時その主体的、自主的な活動を十分行うことができず、その会長である八鹿町長Aの意のままに動いていたのである(理由欄第三の三1(二)参照)ところ、右八鹿町長は当時町に八鹿高校教育正常化共闘会議(のちに八鹿高校差別教育糾弾闘争本部と改称された)を設け、右闘争本部は八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議に共闘し、(理由欄第三の二2(一二)、(一三)参照)八鹿町をあげて八鹿高校闘争に取り組んでおり、右支出の目的は支出の相手方である八鹿町民主化協議会の一般的な活動経費の援助ではなく、右共闘会議の八鹿高校闘争資金を右協議会が援助する資金を町において補助したもので、実質的には八鹿町が直接右共闘会議の八鹿高校闘争資金を補助したに等しいということができる。
そこで右の資金援助の「公益上の必要性」についてであるが、右資金援助は、八鹿高校教師団に対する右共闘会議との対立抗争である八鹿高校闘争で一方当事者である右共闘会議を資金援助するものであるところ、右八鹿高校闘争は、本来は県立高校内部における部落解放研究会設置の是非にかかる教師団と学校長又は県の教育行政機関との間の教育ないしは教育行政問題であつて、八鹿町の地方自治の問題ではなく、八鹿町の関与すべきものではない。さらに右闘争は、右の問題から発展した八鹿高校教師団に対する八鹿高校差別教育糾弾共闘会議との対立抗争となつて八鹿町の行政に悪影響を与えていたとしても、右共闘会議側の活動は犯罪性が強く、これを考量するときはその公益性には重大な疑問があり、その一方当事者である右共闘会議側の活動のみに補助金を支給することは、ますます行政の中立性、公共性に疑問を抱かせるものがある。してみると共闘会議側に対する経費援助が普通地方公共団体である八鹿町の行政目的上実現すべき公益に属すると解するには、否定的とならざるを得ないというべきである。そして、いわゆる八鹿高校事件の発生後の共闘会議の活動は、解放研設置の是非を巡る校内問題のほかに、部落差別解消を直接の目的とするというよりかは、むしろ八鹿高校事件で共闘会議側に犯罪行為がなかつたことの宣伝などその正当化や法廷闘争の強化、捜査の拡大強化に対する牽制、日本共産党に対する闘争の強化等に拡大していつたということができるところ、このような活動が部落差別解消という公益目的の実現にどれ程の効果があるかは疑問であり、さらに適法な捜査に対する牽制が公益に役立つものとは解されないし、現に裁判所において審理中の個別具体的な裁判の内容にわたつてその当否を主張し、一定の内容の裁判を求める運動を展開することは、司法権に対する侵犯として普通地方公共団体の事務内容に属するものではなく、八鹿町の商店等に対して共闘会議の支払うべき未払代金の立替払に至つては八鹿町に義務のないものである一方本来の支払義務者に故なく事実上義務を免れさせる不公平な結果を生むものであり、公益性を見出すのに困難である。これらの諸点及び当時の町財政の状態など諸般の事情を総合して判断すると、前記の補助金の支出が目的とする公益内容の重要性と緊急性はなく、仮りにその若干が認められるとしても公益目的実現の有効性と適切性は皆無に等しいものといわなければならず、右支出は地方自治法二三二条の二に定める公益上の必要がある場合にあたるとすることができないから、違法であるといわなければならない。
この点に関し、被告らは、高等学校において部落解放問題について本質的に取り組み研究するために解放研が設置され、兵庫県教育委員会もその設置を進める方針であつたのに、八鹿高校教師団は、管理職及び生徒の意思に反し、断固これを拒否し、話し合いにも応じず、ハンガースト中の生徒を放置したまま下校するなどの教育者として許されない行動に出たため、八鹿高校の教育正常化を求めた部落完全解放のための闘争であり、右共闘会議には地域団体を始め広範囲の団体を通じて絶対多数の住民が参加していて右共闘会議への補助はこれら住民の要望であり、右共闘会議に苦しい生活環境の中から積極的に多数参加していた解放同盟員に対する費用弁償的補助は同和行政の責務であつたと主張する。しかし、八鹿高校では、従前においても生徒のクラブ活動として部落問題研究会が存在して活動を続けており部落解放問題が無視されていた訳ではないし、解放研の設置の否定がただちに部落完全解放の否定に結びつくものでもないし、右共闘会議への補助が住民の要望であつたとの点についても、<証拠>によると、南但一〇町の行政関係者は、八鹿高校教育正常化共闘会議の段階で事態を正確に理解しないままこれに参加していたこと、A町長のもとで昭和五〇年二月まで八鹿町の助役をしていた森木正三ですら八鹿高校闘争は解放同盟の行き過ぎであるとの意識を当時から有していたことなどが認められ、右事実によると、右共闘会議に絶対多数の住民が正確な認識のもとに参加し右共闘会議への補助を要望していたものとは、たやすく認定できないものがあるし、解放同盟員に対してのみ費用弁償することは公平を欠くものであるから、被告らの右主張はたやすく採用し難い。
(三) 一般会計による備品購入のための支出の適法性の有無
(1) <証拠>を総合すれば、右備品の内容は前述のとおりであり(理由欄第三の三3(一)(2)参照)、右備品は八鹿高校闘争に際し、前記共闘会議の運動員らが使用していたものであること、その購入代金は、八鹿高校闘争の後始末として八鹿町内の備品納入業者に迷惑をかけないようにと南但一〇町長会において相談の結果八鹿町が負担することとなり、その会計は八鹿町役場総務課管理の備品として購入したこととして処理し八鹿町の一般会計から支出したこと(総務課備品購入費)、八鹿町として右のように会計上処理したのは昭和四九年一一月二日に八鹿町町民会館が完成し、同所において将来使用できることも見込んでそのように会計処理したことの各事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) そこで検討するに、Aは、右備品は、同対法の趣旨に基づき差別解消という国民的責務、行政の責務を果すための施策である国民の差別解消のための意識高揚、そのための広報活動・学習会活動等のために必要で、違法な支出ではないと主張する(事実欄第二の五3(二)(2)参照)。
しかしながら、右備品購入の直接の動機ないし原因は八鹿高校闘争に際し前記共闘会議運動員(その多くは解放同盟員)が使用するために購入したもので、備品の内容もパイプテント、毛布、ストーブ等でありもつぱら右闘争に必要なものにすぎず、被告らが主張するような同対法の趣旨に基づく施策のためのものとはいいがたいこと、しかも直接の支出対象である八鹿高校闘争の内容は既に述べたとおり(理由欄第三の二2参照)、犯罪行為といわざるをえない内容で、そのうえ本件支出がCらが八鹿高校事件で逮捕された昭和四九年一二月二日以降の同月二七日になされ、当時の状況からして同対法に基づく施策を有効適切に行いその効果をあげうる状況とはおもえないこと、そもそも右備品購入は八鹿高校闘争がなければ購入していないもので、その代金支払も南但一〇町長相談の結果八鹿高校闘争後の処理として右備品納入業者である八鹿町内の業者に迷惑をかけないことにあつたこと等からすれば、右備品購入はなんら法令上の根拠のない違法な支出である疑いが濃いといわざるを得ない。
(四) 八鹿町立替金三九六万〇七六五円の支出の適法性の有無
(1) 原告ら主張の別表「八鹿高校闘争」欄の「南民協」に対する支出は、結局八鹿町が同町を除く南但九町の立替えとして八鹿町内の業者等に合計三九六万〇七六五円を支払つたものであることは、前述のとおりである(理由欄第三の三3(一)(3)参照)。
そこで、右支出に至る経緯・支出目的等をみるに、<証拠>を総合すると、八鹿町が立て替えた右金員は、八鹿高校闘争のために八鹿闘争本部及び和田山闘争本部並びに共闘会議が要した費用であること(その具体的内容は必ずしも明らかではないが、八鹿町が負担した八鹿町民主化協議会に対する一八九万一三九五円及び一七〇万〇五八八円の支出内容ないし前記一一五万〇九三五円の支出内容からして、八鹿町内などの業者から八鹿高校闘争のために調達した必要な物資等であることは推認できる。)、本来は八鹿高校闘争の際結成された前記共闘会議が支払うべきものではあるが、その支払ができないことからその一部については昭和四九年一二月二七日に開催された南但一〇町長会において八鹿町内の業者等に迷惑をかけないようにとの配慮から南但一〇町が支払う旨決定したこと、右三九六万〇七六五円の支出を決定したのは、行政として八鹿高校闘争後の処理をすることで解放同盟の運動に対し行政としての方向転換を図る意味があつたこと、その支払方法は、八鹿町が他の南但九町において補正予算による支払いができるようになるまで一時立替えをすることとし、その会計方法は南但一〇町で組織している南民協の会計を便宜上使い、「南民協臨時負担金」として、各町から合計五三〇万円の負担金支出に基づきうち三九六万〇七六五円を八鹿町に返戻するとしたこと(甲第一三号証の一三頁参照)の各事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) 右によれば、八鹿町の立て替えた右三九六万〇七六五円は南但一〇町長会の合意に基づき一時立て替えたものではあるが、そもそもは右に認定したとおり八鹿高校闘争に際し使用された前記共闘会議の費用を公金をもつてまかなうため、南民協に補助金として支払い、南民協から関係債権者に支払われたにすぎない。そうすると、右支出は前記(二)の八鹿町民主化協議会に対する補助金の場合と同様の理由で、法令上の根拠のない違法な支出といわざるを得ない。
四本件支出により八鹿町に生じた損害の有無及び額
1 別表「朝来闘争」欄及び「狭山闘争」欄の各支出について
既に認定したところから明らかなように、右各支出により八鹿町がなんらかの対価ないし利益を得ていることは認められないので、右各支出金額の全額が、八鹿町の被つた損害ということになる。
2 別表「八鹿高校闘争」欄の支出について
(一) 既に認定したように、Aが「八鹿高校闘争」において支出した金額は、①八鹿町民主化協議会に対する支出が計三五九万一九八三円、②一般会計による支出が一一五万〇九三五円、③八鹿町が立て替えた金額が三九六万〇七六五円である。
(二) まず、Aが八鹿町民主化協議会に支出した計三五九万一九八三円については、既に認定したところから明らかなように、右支出により八鹿町はなんらかの対価ないし利益を得ていないので、右全額が、八鹿町の被つた損害ということになる。
(三) 次に、Aが一般会計として支出した一一五万〇九三五円についてであるが、既に認定している(理由欄第三の三3(三)(1)参照)ところから明らかなように、右支出による対価として八鹿町は前記備品の所有権をいずれも取得していること、総務課管理の備品として将来八鹿町町民会館において使用すること、同備品は八鹿高校闘争後に八鹿町に返却され八鹿町の管理となつていること(この点は承継前被告A本人尋問の結果により認める。)からして、備品そのものに関する限り八鹿町に損害が発生しているとはいえない。八鹿町が被つているとすれば、せいぜい右備品が八鹿高校闘争期間中に解放同盟を中心とする前記共闘会議にほぼ独占的に使用され、八鹿町として使用できなかつた点であるが、この点に関する原告らの立証はなにもなく、結局において右備品を購入するにつき八鹿町が被つた損害を認定することはできない。
(四) 被告らは、右八鹿町民主化協議会に対する負担金一八九万一三九五円、備品購入費一一五万〇九三五円及び前述の解放同盟丁支部からの返済金三万〇一二〇円(合計三〇七万二四五〇円)については、乙第一七号証(九枚目)、第三八号証によりそれぞれが負担したため戻入伝票(乙第一七号証の九枚目)をもつて八鹿町が回収したとして、損害は発生していない旨主張する(事実欄第二の五3(二)4参照)。
なるほど右証拠によると、前述(理由欄第三の三3(一)(3)参照)のとおり、解放同盟丁支部から八鹿町に対し三万〇一二〇円が返済されたことが認められるものの、<証拠>には、三〇七万二四五〇円の戻入が記載されているが、同支払伝票には「一二四に内入 残三八六六〇四」と記載されているのみで、誰からどのような趣旨で戻入されたかについては<証拠>を斟酌しても定かではないこと、しかも解放同盟D支部を除けば、既に述べたところから明らかなように八鹿町民主化協議会は八鹿町の補助金により運営され、とりわけ<証拠>によれば、昭和五〇年二月一九日の八鹿町からの補助金一八九万一三九五円は同日そのすべてを八鹿高校闘争経費として支出されていること、備品購入費にいたつては八鹿町の一般会計から支出されていることが、<証拠>によれば、八鹿町闘争本部分三四五万九〇五四円のうち一〇町負担分三八万六六〇四円を差し引いた三〇七万二四五〇円は立替金としていないことがそれぞれ認められ、これらの事実などからすると、町民協に対し支出した一八九万一三九五円の損害を回収したとの被告らの前記主張は到底採用できない。
(五) 最後に、八鹿町が立て替えた三九六万〇七六五円(原告らが別表「八鹿高校闘争」欄の南民協に対する支出として主張する七〇三万三二一五円のうち、一八九万一三九五円は八鹿町民主化協議会に対する支出と、一一五万〇九三五円は備品購入のための一般会計による支出とはそれぞれ重複し、また三万〇一二〇円は解放同盟丁支部から返済があつたことは前述(理由欄第三の三3(一)(3)及び前記(四)参照)のとおりであるから、その残額が前記三九六万〇七六五円である。)について検討する。
<証拠>を総合すれば、三九六万〇七六五円が南民協から八鹿町に返却されていること(会計上は昭和五〇年二月一九日に「共闘分」戻入として処理、乙第一七号証の八枚目参照)が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。そうすると、右三九六万〇七六五円については八鹿町に生じた損害は補填されたものということができる。
なお、被告らは右三九六万〇七六五円と八鹿町に南民協特別会計負担金として課せられた六二七万一八〇〇円とを相殺したと主張(事実欄第二の五3(二)(4)参照)し、右主張に沿う前記<証拠>もあるが、そもそも地方公共団体の支出は現金の交付のほかは小切手の振出しないし公金振替書の金融機関に対する交付に限られる(地方自治法二三二条の六参照)のであるから、相殺ということはありえない。このことは<証拠>を総合して認めることができる、右六二七万一八〇〇円も南民協の但馬銀行和田山支店の口座に振り込まれていることからも明らかである。要するに、八鹿町の右会計処理は南民協に特別会計負担金として支出したのち、たまたま同日南民協から八鹿町が立て替えていた三九六万〇七六五円が返却されたにすぎないものなのである。
3 以上から、Aの違法な支出により八鹿町の被つた損害額をまとめると次のようになる。
(一) 別表「朝来闘争」関係 一四万四三二〇円
(二) 別表「狭山闘争」関係 二九五万三四八七円
(三) 別表「八鹿高校闘争」関係 三五九万一九八三円
(合計) 六六八万九七九〇円
4 地方交付税について
(一) 被告らは、本件支出の財政需要について、南但一〇町が共同して兵庫県知事に対し強く要望し、その結果特別交付税が交付され、結果的に特別な本件支出が補填されたのであるから、損害はない旨主張する(事実欄第二の五4参照)ので、以下検討する。
(二) <証拠>を総合すると、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(1) 昭和四九年六月六日開催の南民協定期総会後、Cらから南民協に対し、八〇〇〇万円を越える金員の要求が出されたが、当時の会長であつた岡村勝文は、右要求の内容・南民協の役割等を考慮して、南但一〇町長会で処理するようにした。
(2) 右要求金額が多額で、その要求をそのまま認めることは町財政の破綻をきたすとの危機意識から、南但一〇町は、ことあるごとに兵庫県側に対し財政的援助を要請した。たとえば、昭和四九年七月五日には、南但一〇町の各町長、各町議会議長及び各町教育長の連名で、兵庫県知事及び兵庫県教育長に対し、南但各町は解放同盟の部落完全解放を目指した行政・教育の点検、諸事業の完全実施の強い要求と、各町財政力との接点に立ち苦慮しているとして、兵庫県による抜本的な財政援助を要望している。
(3) 八鹿町においても、兵庫県に対し、昭和四九年度の地方交付税の特別交付税要求に際し、特別財政事情の一つとして、同和対策費のうち部落解放推進費二〇二九万六〇〇〇円を要求している(乙第二三号証の一枚目参照)。その結果、昭和四九年度の特別交付税の額(四四八〇万円)は、その要求額をわずか二〇万円削られたにとどまり、昭和四八年度(三〇六九万円)に比べ大幅に増加し、金額にして一〇〇〇万円を越える伸びとなつた。
右大幅な伸びにつき、国・県の具体的な説明はないが、八鹿町としては、前記要請に基づく同和対策を特に考慮されたものとして受け取つていた。
(4) なお、昭和四九年当時の経済状態は、いわゆるオイルショック後の狂乱物価の時期であつた(公知の事実)。
(三) 右によれば、なるほど八鹿町の昭和四九年度の特別交付税額が大幅に伸びたことは認められるが、右大幅な伸びが、当時の物価情勢及び国・県における何らの説明もない(このことは、すぐ後に述べる地方交付税の趣旨からして当然ではあるが)ことからすれば、同和対策全般について特別の財政需要があることを理由とするものであることが窺えるとしても、被告ら主張のように同和対策のみを特別考慮したものといいきれるか定かではないこと、被告らも認めるとおり、地方交付税の交付にあたつては、地方自治を尊重し、条件をつけ又はその使途を制限してはならない(地方交付税法三条二項)とされていることから、大幅に増額された特別交付税額を裁量の余地もなく、そのまま本件支出に充てる関係にはないこと、仮に本件支出金額が全額返還されたとしても、直ちにその全額を国に返還する関係ではなく、その分八鹿町の財務会計が補填される関係にあることからすれば、特別交付税の大幅な補填をもつて損害が発生していないとはいえない。
五Aの責任
1 解放同盟の運動に対するAの関与・理解等について
既に認定した事実に加え、<証拠>を総合すれば、以下の事実を認定することができ、同認定を左右するに足りる証拠はない。
(一) いわゆるB差別文章事件以来、解放同盟の確認会・糾弾会はその激しさを増し、そのための財政措置につき、Aを含む南但一〇町の町長等は昭和四九年七月五日に兵庫県知事等に要望書を提出した。
(二) 昭和四九年八月二二日には、和田山町において、当時八鹿町長であつたAがその組織の一員となつている南民協ほかが主催して、「狭山差別裁判完全勝利南但総決起大会」が開催された(理由欄第三の二3(一)(2)参照)。
(三) その後、解放同盟の運動はその激しさを増し、兵庫県朝来郡朝来町内において、昭和四九年九月八日には元津事件(理由欄第三の一4参照)、同年一〇月二〇日から同月二六日まではF宅包囲監禁事件(理由欄第三の二1参照)がそれぞれ発生し、Aは、八鹿町職員で組織する自治労が右朝来闘争(橋本宅包囲監禁事件)を支援していたことから、安易に右闘争支援のための補助金支出をしている(理由欄第三の三1(三)参照)。
(四) 狭山裁判に関して、昭和四九年一〇月三〇日には八鹿町内で八鹿町決起集会が、翌三一日には東京において狭山闘争全国集会がそれぞれ開かれ、Aはいずれに対してもその支援のため公金を支出している(理由欄第三の三2参照)。右支出につき、当時司法の問題に公金を出すことは問題があるとの議論があつたにもかかわらず、Aは、右支出をしないことは差別の拡散になるとして支出した。
(五) 昭和四九年一一月に入り、八鹿高校を取り巻く環境が悪化し、解放同盟と八鹿高校教師団との対立が厳しくなつていつたが、このような事態のなかで、八鹿町(代表者はA)及び同町教育委員会は、昭和四九年一一月二〇日に、八鹿高校教師たちが解放研を認めないことなどを八鹿町行政・町教育方針をひぼうし、解放同盟との連帯に「水をさす」ものと非難し、八鹿町中央公民館の一角に八鹿高校教育正常化共闘会議八鹿町本部を設け、八鹿町民の理解・支援を求めている。
八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議が、昭和四九年一一月二一日から解放研生徒たちの断食闘争が始まること等を記載した「共闘会議ニュース」(同日付け)には、右共闘会議に参加している団体の一つとして八鹿高校差別教育糾弾八鹿町共闘本部(本部長はA)が記載されている。
そして、翌二二日にはいわゆる八鹿高校事件が発生した(理由欄第三の二2参照)が、右事件につきAを含む南但一〇町長は共同して、昭和四九年一一月二八日に「兵庫県立八鹿高等学校差別教育糾弾闘争について」との声明を発表し、そのなかで不測の遺憾な事態が種々発生しその責任を痛感するとしながらも、解放同盟と対立している八鹿高校教師団に対しては他の意見に一切耳を貸さない独善性があり、同和教育も放任状態で、偏向教育があつたと手厳しく批判している。
(六) その後、昭和四九年一二月二七日に開催された南但一〇町長会において、行政として八鹿高校闘争のための経費に公金を支出するのは問題があるとの議論も出たが、部落解放という国民的課題のためには多少は乗り越えてでも支援すべきであるとして、結局南但一〇町で負担する旨の合意を取り交わした(理由欄第三の三3(一)(3)参照)。
(七) 昭和四九年一二月一九日以降開催された第一三七回(定例)八鹿町議会及び昭和五〇年一月一六日以降開催された第一三八回(臨時)八鹿町議会において、右各闘争に関連してAはおおむね次のように答弁している。
(1) 第一日(第一三七回定例会)
確認・糾弾は教育につながらなければならないのに、末端支部においては、ばり雑言となり、そのこと自体は悪いことである。
窓口一本化については、兵庫県の方針に基づき、解放同盟と連携をとつているので、有志連、正常化連等解放同盟とは別の団体を排除することはありうる。
八鹿高校闘争以後、八鹿町の同和行政と八鹿町民との間に溝ができたことは認めざるをえないが、解放同盟の路線について軌道修正をする必要性は感じていない。
八鹿高校闘争につき、地方自治体の支援がない限り解放同盟を中心とする部落解放運動は望みえないのが現状で、八鹿町自体は右闘争の共闘会議に入つていないが、緊密な連携をとり兵たん部を受け持つ形で支援した。
(2) 第二日(第一三七回定例会)
八鹿高校事件で逮捕された解放同盟構成員につき、昭和四九年一二月一四日付けをもつて、八鹿町闘争本部長Aの名で、八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘団体各位あてに、右逮捕は不当逮捕である趣旨の抗議の葉書を警察等関係機関に出して欲しい旨の要請をした(A自身は失念しているが総務課長がこのような答弁をしている。)。
(3) 第三日(第一三七回定例会)
運動参加者への費用弁償はふさわしくない。
狭山闘争については、K(現再審請求人)の無実を信じることで運動を展開してゆく。
一連の闘争に関し、町議会の議決後に支出するという地方自治法等の基本線が崩れつつあるが、とりわけ同法二三二条の二の補助については事前執行は望ましくなく、運動時点で必要を認めたので、変則ではあるが町議会の承認を賜りたい。
(4) 第一日(第一三八回臨時会)
朝来闘争、八鹿高校闘争につき八鹿町でその費用を負担しなければならないものがあるとしながら、その財源見通しにつき疑問をもつている。
(5) 第三日(第一三八回臨時会)
一連の闘争に要した費用を八鹿町が負担すべき根拠はあるのかとの質問に対し、Aは「法的根拠がないから、町長は困つているのだ。」と答弁している。
(八) Aは、昭和五〇年二月一〇日に、南但一〇町長の一員として、八鹿高校闘争につき、行過ぎ、衝撃的な動揺、不信感を与えたと反省しながらも、部落解放同盟と反対の立場をとる諸団体の謀略的情宣活動は許すことができないとの声明を出している。
(九) Aの八鹿町長としての任期は、昭和五〇年二月一九日をもつて終了した。
2 右によれば、Aの解放行政は、解放同盟の運動が激しさを増すにつれ、その勢いにおされ、時には行政としての主体性を失い、解放同盟と一体となつて行動を共にする場面すら見受けられる。
そこで、このような理解を前提にして、Aの違法な支出により八鹿町が被つた損害(理由欄第三の四3参照)の責任について検討するに、右支出(現実の支出及び支出命令)は、いずれも昭和四九年八月三〇日から昭和五〇年二月一九日までの間にされているところ、既に認定したところから明らかなように、「朝来闘争」関係の支出については、A自身八鹿町に右支出の義務がないと理解しながら、解放同盟の運動に押し切られるようにして支出していること(理由欄第三の三1(三)参照)、「狭山闘争」関係の支出については、Aの前記八鹿町議会の答弁からも明らかなとおり、無罪裁判獲得を目指していることは明らかで、しかも狭山闘争への公金の支出については司法の問題にかかわるので支出すべきでないとの議論があつたにもかかわらず、あえて支出していること、「八鹿高校闘争」関係の支出にいたつては、Aの八鹿高校闘争に対する前記関わり方からして、まさに解放同盟と一体となつていること(八鹿町議会において八鹿町は「兵たん部」として支援したと答弁している。)、そして右一連の闘争を通じ、Aは、八鹿町議会においてその費用負担の法的根拠につき「法的根拠がないから、町長は困つているのだ。」と答弁するにいたつては、Aのした前記支出につき、Aはその支出が違法で八鹿町に損害を与えるものであることを知つていたか、少なくとも少し注意をすれば容易にそのことを知りうる立場にあつたということができるから、Aは故意又は重大な過失により、右支出額に相当する損害を八鹿町に生ぜしめたものといわなければならない。
被告らは、兵庫県から各市町村に対し、運動団体の要求は緊急妥当性を検討し、解放につながる経費は負担して援助するよう強力な指導がなされた旨主張するが、仮に右事実が認定できるとしても、本件各支出は、その緊急妥当性を検討して解放につながるものであるとたやすく断定できないから、前記判断を左右することはできない。
また被告らは、収入役や町議会においても本件各支出を適法と判断していたし、本件各支出の違法性を主張して選挙に当選した他の町長らも特別負担金を支出した旨主張するが、収入役や町議会の判断と離れてAは町長としての責任を果たすべきであるし、他の町長らの特別負担金支出は、各町独自の政治的考慮によるものと推認できるから、前記判断を左右することはできない。
3 そして、被告A1は妻として、その余の被告らは子として、いずれもAの相続人である(弁論の全趣旨により認める。)から、その相続分(法定相続分)にしたがつて、八鹿町の被つた右損害及び本件訴状送達の翌日である昭和五〇年六月六日から支払済まで、これらに対する年五分の割合による遅延損害金を賠償する義務がある。
第四結論
よつて、原告らの本訴請求のうち、別表「朝来闘争」関係一四万四三二〇円、同「狭山闘争」関係二九五万三四八七円及び同「八鹿高校闘争」関係三五九万一九八三円(町民協支出分)の合計六六八万九七九〇円及びこれに対する昭和五〇年六月六日から完済にいたるまで年五分の割合による遅延損害金の支払を(法定相続分の割合に応じて)求める限度においてはこれを正当として認容し、その余の請求は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用し、なお仮執行宣言の申立は相当でないからこれを却下することとして、主文のとおり判決する
(裁判長裁判官野田殷稔 裁判官小林一好 裁判官横山光雄は、転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官野田殷稔)
支出項目別一覧表
支出
年月日
支出先
町民協
町同協
南民協
解同支部
説明
小計
項目
朝来闘争
50.2.14
40,000
集会バス借上料
〃
4,320
パン代
〃
100,000
交通事故補償
小計
144,320
144,320
狭山闘争
50.2.14
80,000
8/22 南但決起集会
〃
61,504
10/30 八鹿町 〃
〃
662,733
10/31 全国集会
50.2.14
(町同協)
168,450
〃 (町同協として)
34,800
8/22 南但決起集会
1,260,000
丁 90人
350,000
戊 25人
182,000
乙 13人
154,000
己 11人
小計
804,237
168,450
34,800
1,946,000
2,953,487
八鹿高校闘争
50.2.19
1,891,395
八鹿町闘争経費
11/25までの分
〃
1,700,588
〃
11/26以降の分
50.2.19
(一般会計)
1,150,935
備品購入
49.12.27
7,033,215
10町立替分
小計
3,591,983
1,150,935
7,033,215
11,776,133
合計
4,540,540
1,319,385
7,068,015
1,946,000
14,873,940